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青山真治インタヴュウ「なぜ映らないものは、映らないのか?」
Ceaseless and Latent Duration (duree) of Film Projection

青山真治 AOYAMA, Shinji(Cineaste)

聞き手 大川久美子(ICANOF)

(1) 他人のためだけに生きることはできるだろうか
大川 今、次の作品を作っていらっしゃるそうですね。
青山 はい、一番最新作が完成したところです。
大川 また今度も映画祭か何かに出されるんですか?
佐藤(ブランディッシュ)ええ、実は明日記者会見をするんですよ。今年のカンヌのコンペティションに出せることになったので。
大川 そうなんですか。すごいですね。『月の砂漠』というタイトルを伺った時に、どうしても童謡に唄われる『月の砂漠』をイメージしてしまったんですが、そのタイトルはどういったところから考えられたんですか?
青山 『月の砂漠』の原案は、実はもう5、6年前からありまして、『Helpless』という一番最初の映画を作ったのと丁度同じ時期に見つけたタイトルなんです。いわゆる唄に言われる『月の砂漠』じゃなくて、月の表面の荒野と言いますか、そっちの意味なんですよね。何もない、というか、岩と砂以外何もない表面。そのイメージですね。月っていうのは地球から見るとつるんと光ってキレイだったりするんですけど、でも近づいていくと、宇宙船というか月ロケットが行って、そこに人が降りてテレビカメラで映してみると、それはもう本当にただの砂漠である、と。見た目の美しさに憧れて近づいて、実際に見てみると、不毛な砂漠だったという。何もないところ。そのような理想と現実の“距離”というか、“憧れ”や“欲望”といったものが必然的に至ってしまう現実を表す言葉としての『月の砂漠』というタイトルなんですよね。
大川 今回の映画では、家族といいますか夫婦といいますか、何かそのようなものを描かれているということなんですが。
青山 ええ、実はずっと僕は何となく家族というものに向けて映画を作ってきたところがあるので、“今回も”という感じなんですけれどもね。『ユリイカ』もそうですし、以前から割と、そういうところはあるんです。かつては家族になる前のカップルとか夫婦とか。今回は子供も出てくるんですが、『ユリイカ』は割とそれを外から見てる感じがあったんですけど、今回は家族の中に入って見ていくような感じですかね。外から、離れた所から見るんじゃなくて、中に入っていってその関係そのものをキャメラが繋ぐ線のようになっていく感じ。そういうイメージで作っていったんです。
大川 『ユリイカ』の中で、役所広司さん演じる元バスの運転手沢井が「他人のためだけに生きることはできるだろうか?」ということをおっしゃっていて、それはかなり衝撃的な言葉だったんですけれども、そのスタンスというか、家族でも何でもない人間のために生きるということと、家族という一応法律に守られた最小の組織のために生きるということでは、何か意味が違ってくるんでしょうか?
青山 まさにそれが次の映画のテーマというか、『ユリイカ』という映画の中で役所さんが言った「他人のためだけに生きることはできるだろうか?」という言葉を、そのまま家族の中に持ち込むとどうなるか、ということですね。つまり実際の家族そのままに、役所さんが目指すようなところに向かうことができるか、というようなことかなと思っているんですよね。というのは、例えば父親と母親と娘の三人がいたとして、三人の顔ぶれは変わらないんだけど、その繋がりみたいなものそのものが変わってしまうような形。何か、家族としてあったものがその関係の本質を変えて別の段階の共同体みたいなものに移り変わっていく、そういうことがありえないだろうか、って思ったのが、『月の砂漠』という物語の出発点なんです。
大川 また役所広司さんが出ていらっしゃるんですか?
青山 いえ、役所さんは出てないです。今度は違ったキャストで。
大川 私自身、家族というのはとても不思議な存在だなって思っているんですが、たとえば他人同士であれば、それぞれが意識を持って関係を作らない限りは全く接点のないものですよね。『ユリイカ』の中でくしくも役所さんがおっしゃっていたように、“他人のためだけに生きられるか”という問いを持って向かうという形があるように、何かがないとなかなか関係というのは作れないものだと思うんですが、家族というのは最初から関係があるところから始まっていくので、なかなかそこの中でお互いの関係を意識的に持つということは、普通の家族ではそれは逆に不自然というか、とても難しいことだと思うんです。でもそこをあえて一般的な家族の関係からもっと違った、もとは個人であって、その個人が何かの意味を持って繋がっているということを意識的に持つためには、それぞれの心の在りようがシフトするきっかけが必要なんじゃないかと思うのですが、その辺はどのように描かれているのですか?
青山 うん。そこが丁度この映画の中のポイントというか、この映画の場合は始まった時にすでに起こっていることとしてあるんですよね。つまり物語的に言うと、妻と娘が自分の家を出ていき、どこに行ったかわからなくなってしまった男というのがいて、“家族だから捜す”みたいなこととして妻と娘を捜し始める、というところから入るんです。で、それがいずれ、「“家族だから捜す”とか“家族だから一緒にいようとする”ということじゃない」というようなところに行く。同じ“家族”という言葉なのに、どんどん別の意味を持ってしまう。家族という言葉が使われていながら、別のものに、どうも途中から変わっていく。それはすごく分かりにくいんですけど、見ていてそれが感じられるかどうか分からないんですけど、一応そんなようなことを考えていて。ずっと“家族”って言ってるんだけど、最初に言ってる“家族”と、今言ってる“家族”は違うというようなところに最終的には立つ、という感じですね。それが出てくる根拠みたいなものって、結局今おっしゃったような、もともと家族であって繋がりがあって、というようなことそのものを、まず何か僕は疑わしいと思ってるところがあるんですね。それを言い出すと、「いや、もしかしたら僕と僕の友達というのは元々僕と僕の友達という関係が最初にあって、それで個人個人があるのかもしれない。こっちが意識的に何か持ってきたような気がしているだけで、最初から関係というものがあって、そこに出逢いがあって喧嘩別れがあるのかもしれないし。そういうものなんじゃないんだろうか、もしかしたら」と。関係というものをそういう目で見ていくと、家族も友達とかもそんなに変わらない。僕自身、家族に対して何か言ったり何か働きかけをしたりする時は、自分の意志を作らなければできないわけです、ましてやこの年になると。小さい頃は別ですけど、小さい頃と今の親との関係、兄弟との関係というのは全然違うわけですよね。それはあくまでも“新たに築かないと作れない関係”。それをまず出発点にしようかな、と。夫婦なんていうのはもっとそうですよね。

(2) お前の目に映る海を俺に見せてくれ
大川 そうですね。『ユリイカ』に出てくる兄妹がいますが、あの“妹の目を通して海を見るお兄さん”という二人の関係性がすごく衝撃的でした。目の視点というか、人の目を介すことによってようやく世界を見ることができる目。そこにある意識というのは、家族とかそういった繋がりではなくて、もっと基本的な、人が共にいることの根源的な意味というか理由なんじゃないかという気がするんですけれども、そういった関係を考えられたのはどういったところからだったんですか?
青山 特にあの部分、お兄さんが「お前の目に映る海を俺に見せてくれ」というような関係。人間の結びつき方というのは現実がどうあれ、「俺はお前を信頼する」ということなんですよね、きっと。多分。それは友人だろうが、兄弟だろうが親子だろうが、あんまり関係がない。「お前が見たんだったら俺も信じる」、「お前が見たという喜びを俺も喜ぶ」というような関係。それはまぁ、口で言っちゃうとすごく簡単になってしまうんですが、信頼みたいなもの。それはまさに今おっしゃったように、人間の最小単位みたいなところにある関係として、最小単位かつ一番大きくて重い関係なのではないかしら。そういう所に彼と彼女が最終的に立てたかな、と。立つんだろうな、と。最初はごく普通の、別にそういうことが一切ない関係からそこに至るということが、あの『ユリイカ』という映画の中では、フィクションではあるけれども重要なポイントだったと思います。
大川 全体的にそういう感覚というのが、あの映画の中には流れていたと思うんですけれども、『ユリイカ』という映画を見ながら、その前に監督がお作りになった『シェイディー・グローヴ』という映画の最後のシーン、主人公の男女二人がユニゾンで詩を朗読するシーンを思い出したんです。最初におっしゃっていたように、色々と映画の形を変えながらも、やはりそういう関係性というものを追求していらっしゃるんでしょうか?
青山 そうですね。なおかつ『シェイディー・グローヴ』という映画は、僕にとって非常に“原初的な”というか“きっかけ”みたいなこと、つまり、それはいわゆる人と人との信頼関係みたいな、信頼という言葉もはずしたいくらいの、ただの単なる関係というもの、「自分が相手を見てるということをわかるのは、相手が自分を見てるからだ」という風にしか言えない他者との関係。そこから始まっているんですね。それが進んでいくと、「あなたが見たものを自分は信じる」ということになっていくんじゃないかと。
大川 『シェイディー・グローヴ』という映画の中に出てくる老警備員さんが「妻が死んで以来、自分が存在しているのかどうかわからなくなった」って確か言ってましたけど、その感じなんでしょうか。
青山 そうですね。そういうことだと思うんです。孤独というものがあるとしたら、それは“自分を見てる人を見られないこと”だと思うんですよね。
大川 すごい個人的なことなんですけど、実は離婚をすることになって、ちょっと前から一人で暮らして居るんです。でも、一人で暮らし始めた途端に、自分を確認してくれる人が居ないということが、すごく辛いこととしてのしかかっていて。『ユリイカ』にありましたけど、バスの中で寝泊まりしている時に、バスの壁をノックする手に応えてくれるところ。会話も目配せも何もないのに、ただノックし合うことで気持ちを伝い合える。あのシーンは今の私にはかなり堪えたんですけど、ああいう“自分の問いかけに誰かが応えてくれる”ということは、多分誰もが望んでることだと思うんです。特に今の十代の子たちというのは、訳が分からないくらいのものすごい孤独感を抱えているんじゃないかと思うんですが、そういう子たちが、相手を認識することとか、相手がいることで自分が居るんだという気持ちを持てる信頼感みたいなものに気付くためのきっかけを作るには、どういう風にすればいいと思いますか?
青山 分からないですね。本当に基本的なことなんですよね、それは。“人が見てることを自分が見ている”ということに気付くというのは。ただ、それに気付かなくなるということは、要するにそれを捨てちゃってることなんですよね。とは言え、何の意味もなく捨ててるんじゃなくて、前の世代がそうしてるから捨てるんですよ。今の人たちがそうだから問題なんじゃなくて、前の世代からすでにそうであったということが問題なんだと思うんです。飯を食っていてもお父さんはいない。お母さんと二人で食べてる。お母さんはお父さんのことを見たいんだけどそこにいない、ということも見てる。だからお母さんは下を向いて飯を食ってる。単純に言えば、そういう食卓から始まって、あらゆる局面で“人が自分を見ているのを見ている”ということが、特に近代の日本の中では、ずっとないがしろにされていることだという気がするんですね。それは突き詰めて言っちゃえば、家父長制みたいなところまで辿り着くんだと思うんですが、そこからさらに緩く、柔らかくなっていった頃に戦争があって、その後には「何をしても変わらない」という絶望感がもたらす関係の希薄さ、というか、そういう関係に対する無視のしかた、というものが始まり、それが連綿と続いてこうなってると思うので、別に彼らにそれが情報として頭に入ってなくて当たり前だと思うんですね。しかし僕にとっては、例えば自分が生きてて「ああ、楽しいな」って思う時って、やっぱり“相手が自分を見ているのを見ている”ということが分かる時なんです。そのことを、それが「楽しいな」って思えるかどうかということすら知らなければ、それは“相手が自分を見ているのを見ている”というところにも絶対届かないんですけど。僕は自分の映画の中でそのことを言って、「それが楽しいんだということをみんなに、特に若い人たちに気付いてもらえればな」って思ってやってるっていうとこがあるんですけれどもね。
大川 特に映画ということで表現をする場合には、より一層“見ること”とか“見られること”に敏感で意識的でなければならないと思うんですが、実際に映画監督とか映像作家を目指している今の若い人たちが、果たしてその辺を理解できているかどうかというのが、実はこれから先どういう作品を作っていくかということに於いて大きな分かれ目になっていくんじゃないかと思うんですが。
青山 各個人個人が何を自分の映画の中でやりたいかということは千差万別なんで、僕がそれについてとやかく言うことではないと思うんですが、ただ今まで言ってきたようなこと、つまり“人が見ていることを自分が見る”というような関係のあり方って、実は映画はすごく苦手なんですよね。相手と自分の間にキャメラが入って、それは同時に撮ることができない、っていう非常に機械的な制約を、制度的な制約を持っちゃってるんですね。つまり両方が向き合っているのを横から撮ったとしても、その視線そのものが映らなければ、自分がキャメラになって見てるという状態の自分というものが見られない。相手もまた同じで、それは切り返してカットとカットを繋ぐなどして、あたかも見ているかのような、幻想の中でしかそれは描けないわけです。実際の感情みたいなものの中には入っていけないんですね。それが映画の持っている最大の制約なわけです。でも、それだからこそ何となくそういうことを回避していくような、そういう苦手科目から逃げていくような感じというのを実は映画というのは持っていて、どんどんどんどんそういうことをやめていくんですけど、「でも、やるんだ」ということが僕は必要だと思ってるんです。「それでもやるんだ」と。
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(図録 "ICANOF Media Art Show 2001" より転載)



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