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■キュレーター
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mail:icanof@hi-net.ne.jp

■ICANOF事務局
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【 ICANOF アーカイヴ 】
- ICANOF Archive Materials -



イナーシア inertia の写真

北島敬三 (KITAJIMA Keizo, photographer)

聞き手 豊島重之(ICANOFキュレーター)

(1) 写真とは何かという「その」写真を誰も見る事はできない
豊島 今度の企画展のテーマは「風景にメス」。文字通りであれメタフォリカルであれ、風景を切開するという事をやってみよう、次にはその切り口を縫い閉じてみよう、という問題提起です。ランドスケープに対してボディスケープやサウンドスケープという言葉があるように、無音として耳に入ってくるものもあれば人の気配とか死の匂い、そういうものも風景になりうると考えた場合、写真は物質としてあるものなのか、非物質としてしか扱えないものなのかと。つまり何か様式というか定型というか、そういう無意識的な様相を持ってるものなのかどうかって言うのは、写真を見た後も見る前も、いつも付きまとってくる問いとしてあるからだと思うんです。要するに写真って、ジャンルなのかカテゴリーなのかメディアなのか、その辺を、北島さんはどう思われますか?
北島 いや、ちょっと難しすぎて分からない(笑)。
豊島 「写真というものがある」という事は、誰もが薄々と知ってるわけですよ。
北島 でも、「写真そのもの」を見た事がある人は、一人もいないわけです。「何か」のイメージしか見れないわけだから。写真自体は目の前に在りながら、写真そのものを見るのは不可能だっていう事があると思うんです。
豊島 それって、ここに物は在るけども、物自体は見る事が出来ないって言うのと同じですか?
北島 物自体とかではなく、写真は常に「何か」のイメージでしかない、という事です。
豊島 という事は、写真をイメージとして捉えてらっしゃる?
北島 いや、まず何かのイメージに見えて、後から「これは写真だ」となるわけです。 写真を破いても、その断片が、また「写真」になっちゃうわけですよ。また、印刷されたとしても、それも「写真」なんですね。絵画は、破かれたら物質に戻ってしまうし、印刷されたものは絵画じゃないですよね。
豊島 写真そのものは、どこかに在るんじゃなくて、ここに在るという事ですね。破かれたらまた新しい写真が生成してくると。それをまた破けば、またそこに、という。
北島 でも、「何か」のイメージとして生成するのであって、一枚のブツとしてではない。ある同じ写真=イメージが、印画紙でギャラリーに展示されても、雑誌に掲載されても、全部「写真」でしょう。
豊島 写真そのものって言ってる時には、そのブツの写真を指してるわけでは無いんですね?
北島 いや、つまり言葉で「写真とは」って問われる写真というのは、誰も見た事がない。「この写真」は在るけれども、写真とは何かっていう問いが頭に付く写真っていうのは無いという事です。

(2)19世紀的近代の欲望の装置/主体と他者性の装置
豊島 最初の問いが誤った問いであったとして、写真とは何かじゃなくて、イメージとは何かという問いだったら、どうでしょう?
北島 でも、イメージの話っていくらでも話せそうで、逆につまらなくなってしまう。写真は具体的にそこに在りながら、それについて言葉で追跡できない。限界と同時に、強度があると思うんですね。
僕は、写真をいまだに19世紀的な視覚装置だと捉えています。それも、現代の人間に相当影響を与えた。メディアとしては利用し尽くされ、ジャンルとしても曖昧になって、衰退していく時期だから、却ってそう思うのかも知れませんが。
豊島 すると、その「装置」は、「構造」という言葉には置換できないって事ですよね?
北島 そうですね。構造だと、ちょっと違いますね。装置っていうのは、動く感じじゃないですか。カメラ・オブスキュラなら構造でいいと思うけど。
豊島 構造という時には、構造変動という言葉をわざわざ使いますからね(笑)。
北島 ただ写真について語られたものとか色々読んだりするとね、実感とはちょっとズレるなぁと感じる。どっか一面的なんですよ。例えば、見るという事について語ってはいるけれども、それはファインダーを覗いている時の事にしか当てはまらない。プリントについて喋ってるけど、ネガという問題がすっぽり抜け落ちているとか。
豊島 つい我々は二分法= dichotomyで考えがちですが、写真っていうのは非連続で、しかも様々に生成変化していくマシーニック= machinicなものですから、そういう意味で「複数性」って仰っているわけだし。実はそういう写真の在り方に、我々も興味を持ってICANOFを始めたんですけれども。
北島 あまり原理的に考えちゃうと「近代産業社会が作り出す欲望」といった問題が抜け落ちて、ピンホールに行っちゃうわけですよ(笑)。カメラは人間の欲望に奉仕する装置でもあるわけでしょう。
また一方で、カメラって、自分の身体の延長として捉えられ、そうあるべきだと考えられている。こういう考え方にも無理があると思うんです。例えば、自分の全身を自分で直接見る事はできないけれど、カメラなら撮れる。自分から離して三脚立ててセルフタイマーを使えば、自分の全身を撮る事ができる。それはもう他人が撮っているという事と同じですよ。自分では不可能な視点なのだから。
ついでに言うと、シャッターを押す時には、今度は時間的な問題があって、思考を切断しなきゃ押せないわけです。つまり決断? 考えてたら押せないからエイッって、ある時間を切断して押す。動いている被写体のどのシャッターチャンスか、じゃなくて、こっち側の時間の切断がないと押せないわけです。ファインダーを覗いている時間と、シャッターを押す瞬間とでは、全く違う主体が要請されるわけです。で、さらに、でき上がった写真を見たら、なんにも写っていなかったりする。
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(図録 "ICANOF Media Art Show 2004" より転載)



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