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風景をハグ(剥ぐ・接ぐ)(L)ANDSC(R)APE/(EX)FOLIATE 〜 T
(03年9月6日/国際交流基金フォーラム(溜池山王)/に加筆校正)

出席/菅木志雄(美術家)
倉石信乃(批評家)
豊島重之(ICANOFキュレーター)



(1)「雑草=周囲なるもの」の猛威と絶滅
豊島


©YOSHIDA Tohru

 改めてご紹介するまでもありませんが、お隣りが菅木志雄さん、それから倉石信乃さんです。私が進行をつとめるモレキュラーの豊島です。「風景をハグ」というテーマで写真と上演とが併設されています。いま観て頂いた上演、「イタドリ」というタイトルなんですが、「なんだ、板取ってるだけじゃねぇか」と(笑)。実は風景を剥いでるつもりなんですね(笑)。
 イタドリの当て字は「虎の杖」。多分、足に怪我をした虎が、草地の中からある一本をむしり取ってですね、それを怪我した損傷部に舌でぺろぺろ擦りつけていた。それを盗み見た人がいたんですね、賢治の「鹿踊りのはじまり」みたいに。いわば虎の足の杖代わり、そこから鎮痛の薬効があるんではないかと。それがイタドリの語源なんですけど。私はむしろ、イタドリはそこらにあるごく普通の雑草だけども、道端とか家と家の境とかにワーッと丈高く繁茂するのが特性で、すると、板塀が要らないんですね。板要らず、そこからイタドリっていう名前が来たんじゃないか、というのが私の説なんですね(笑)。で、今日のお話は、イタドリという雑草を「周囲なるもの」と看做して、やや強引に「周囲論」的な文脈に置いてみよう、というのがコロック前半の主題です。
 御存知でしょうが、19世紀半ばに蘭学医で博物学者でもあったシーボルトが、この日本原産のイタドリを本国に持ち帰るんですね。で、日本のみならず広くアジア・オリエントから、薬効のありそうな草花を掻き集めてボタニカル・ガーデンを造る。見栄えのパッとしないイタドリも、多分その端の方に植えられたんじゃないでしょうか。先日、倉石さんも関わった「明るい窓」展を横浜美術館でやってましたが、「風景写真」もまた19世紀半ばの植民地戦争の所産であって、いわば「風景」もまたイタドリ同様に植民地から「採集」されたものだったわけです。
 ところが向こうの土質のせいか、そのイタドリがどんどん繁殖して、オランダ、デンマークどころの話じゃない、各国くまなく越境していき、さらにはドーバー海峡を越えてイギリスまで侵蝕してしまう。コンクリートで埋め尽くしても、そのコンクリートをブチ割って過剰繁殖するんだそうです。西ヨーロッパ本来の植生を変えてしまうほどに猛威を振るっているわけですね。そこで、公演チラシに書いてある通り、"Hedging plant" でしかないイタドリが、"Raging weed" と呼ばれて、「イタドリ絶滅計画」という、イタドリをホロコーストしてしまえという、ヨーロッパ中の植物学者、地質学者、微生物学者、生態学者らを掻き集めたミッションが、現在まさに進行中なんです。どうして日本国内では異常繁殖しないのかと、日本の地味を調べたり、土壌微生物やらゲノム解析やらするんでしょうけど、まだ対策らしい対策は発表されていません。それが "Raging weed" の次の "under eradication" の意味する処です。
 別に、最近の世界情勢を念頭に入れなくとも、私達のごく身近で「周囲なるもの」が猛威を振るっているのは明らかですし、おそらくそれは、絶滅の予感を先取りしたものに違いないでしょう。

(2)「ピンボケ=どこかその辺」というスタンスとアナロジー
豊島  このコロックの後半では、倉石さんが書かれた菅木志雄論の一節「声と文」というテクストをモチーフにしたいと思っています。今日の上演でも、盛んに「声と文」の対比が語られていたわけですが、例えば後期ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」ですね。「どこかその辺に立っていろ、というのは無意味だろうか」とか、「ピンボケの写真は果たして人間の映像なのか」とか、しつこく繰返されていましたね。誰もが「ここ」に立つ事ができるし、「ここ」にしか立つ事ができないんだけれども、じゃあ、「どこかその辺」に立つ事は可能だろうか。同様に、「意味」というのは映像であり、「映像」は意味に他ならないんだけれども、じゃあ、「ピンボケの映像」とは何なんだろうか。そういうのが「周囲論」的なパラダイムという事です。
 菅木志雄さんと言いますと、モノ派として知られているわけですが、モノ派は当時、リアルタイムには、どうしてもメルロ=ポンティのコンテクストで看做されがちだったわけです。ところが倉石さんの見方はそうじゃなくて、菅さんの実作ないし実験というのは、むしろ後期ヴィトゲンシュタインとか、或いは私の見方ではジェームズ・ギブソンの思考と通脈する処があるんではないかと。そこで、まず倉石さんから口火を切って頂きたいんですけど、例えば「風景を剥げば、周囲なるものが露頭してくるのか」、という風な事なんですが。
倉石  周囲という問題を取り出すと、類似した例えば「周縁」という概念がまず思い浮かびます。「中心」があってそれに対抗する「周縁」がある、みたいな二元論的な構造や、その中で「反中心」的なものが称揚されていくというような、例えば文化人類学で想定されているような「中心」と「周縁」の二項対立ですね。
 菅さんの言う「周囲」という概念は、やや違うものだと考えられます。明確に説明するのは難しいんですが、菅さんの場合、作家が何かものを制作していく上でも、或いは普段の生活の中でも、自分の立ち位置とかスタンスを「中心」に置いて、そこから世界が眺められるというような構造、つまりパースペクティヴと共にある「風景」をまず疑ってかかっています。自分のいる位置がまさに「周囲」にすぎなくて、無数の「周囲」が重なり合っていく中に世界というものが成立しているという事を、具体的な実作の中で模索し探求していく。そこでは「中心」はないか、もしくは徹底して幻想とされている。
 そこが菅さんの「周囲論」的な作品の画期的な処だと思っています。それは勿論、風景批判であり、人間中心主義に対する批判も含んでいるわけです。単純化して言うと、「中心」というのは常に強固に幻想的なものとして、或いは形作られたものとしての「虚の位置」にすぎなくて、実の処、我々は「周囲」にしか居る事ができない。そういう事が具体的に我が身に起こるというか、その事を認識させるためには、特殊な様態・かたちの場所を指示してみせる事がどうしても必要です。
 例えば菅さんの作品の中で80年代の半ばに制作された「スクウェア・ポンド」という連作があるんですけれども、池状の、非常に低い金属製の水盤をですね、方形を組み合わせた、浅い深さを持った水盤状のものをギャラリー空間に敷き詰めるというものです。そういった作品を見ると、それを見る観賞者の位置は、常に作品の「周囲」にしか居る事ができない。それを具体的な体感として経験させる構造体を、菅さんは鮮やかに提示しています。
 他にも、様々な「周囲」という場所がもたらす「アナロジー」が、我々の様々な思考を活性化させる、そうした構造体を営々と制作されている。ここにイメージがなくて語るのはすごく難しいんですが(笑)。是非、今後、機会があったら作品を実際に見て頂きたいと思います。
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(図録"ICANOF Media Art Show 2004"より転載)



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