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風景をハグ(剥ぐ・接ぐ)(L)ANDSC(R)APE/(EX)FOLIATE 〜 T
(03年9月6日/国際交流基金フォーラム(溜池山王)/に加筆校正)

出席/菅木志雄(美術家)
倉石信乃(批評家)
豊島重之(ICANOFキュレーター)



(3)「もの」が集まる中心と「もの」が移動する周囲
豊島  続いて、菅さんからお話を伺う前にですね、一つエピソードを述べておきたいんですが。99年に横浜美術館で「スタンス」というタイトルの菅木志雄展が開催されたわけです。それが私には重要な作品展で、今回の公演のモチベーションにもなっているわけですが、この「スタンス」展を、私は実は、見て、おりません(笑)。見てないのにお前は、なんていう奴だという事になるんですが。送られてきた図録と研究紀要を読ませて頂いて、前々から伏線としてあった「イタドリ」構想が、俄然、具体性を持ち始めたんですね。
 要するに、倉石さんのテクストだけで上演を組み立てていく事は可能だろうかと。つまりそのテクストの元になっている菅木志雄さんの実作を見ていないのに、見ていないからこそ作れるというか、テクストだけで作っちゃうっていう、そういう不届きな、不埒な事が今日行われたわけです(笑)。作者ご本人を前にして実に「板板(いたいた)しい」舞台だったかどうか(笑)。そういう最初の枕を受けて、菅さんに、前半は「周囲論」という事なんですけれども。



MORECULAR THEATRE "ITADORI"
(The Japan Foundation Forum, Tokyo 2003)
©YOSHIDA Tohru

 今、お二方に色々言って貰いまして、聞いてる僕の方が逆に納得する部分があって、とても不思議な感じですね。豊島さんは僕の作品を見てないとおっしゃってまして、却ってよかったと僕も思いました。見てるとやっぱり、物の力とか構造の力って強いですから。結局、志向性が振り回されるという観点もあるでしょうし。ですから、却ってよかったんじゃないでしょうか。
 それから、倉石さんの書いたこの研究紀要、これ読んで貰えれば大体僕が何を考えていたか、非常によく解るんじゃないかと思っています。僕も今回また読み返してみましたけれども、僕の作品について過不足なく、非常にうまく書いていると思います。だから僕が何も付け加える必要はないかなと思ったりしてますね。僕はものを作る人間ですから、やっぱり実践論的に作品を作っていく過程で色々と発想した、その辺りの事をちょっと話してみようかなと思っています。
 最初の頃はですね、あまり「周囲」とか「周囲性」みたいな事を考えずに、とにかく「ものをそこにどうするか」っていう発想が強かった。遠くに住んでるものですから車で材料を持ってきたり、或いは拾ってきたり、色んなものを使って色んな場所でやりました。仮に、展覧会をする場所じゃなくて僕が手に入れたものを全然違う場所に持って行く、そしたらどうなるかと。すると当然、作品は成立しませんね。作品は成立しないけれども、「ものの移動」は成立してるんですね、そこで。すると、ものの移動によって「ものが集まっている場所」というのは、一体何なのかと。
 要するに、ものを作る人間の意識がそこに集中していく場所、ある種、認識を高めていく場所があって。そこに色んな人間の価値観が付随してきて、場所の設定が非常に明確になってくる。だから僕が手に入れたものを勝手に、ゴミのような物をただ持ってってそこに置けばいいかって言うと、どうもそうじゃない。そういう一つの約束事の強さ、僕はこれを一種の圧力と思っていて。僕らが立ち入るには非常に緊張感を強要するというか、強要された場所の意識というか、そこで「ある意識が成立しないといけない」という強制力が働くんですね。そこが、展示する場所なんですよ。だからそれを言い換えて、ある種の「中央」或いは「中心」と言えない事はない。
 例えば野っ原に何か一つ変なものが置かれると、変なものっていうのは、作品かも知れないし、とにかく理解しがたいもの、或いはもっと意図的なものかも知れないけど、人間というのはその「中心」を避けて、その周辺の方を回るものなんです。それを避けて通る時に、目にしてる場合と、目にできない場合がある。つまり遠く離れて通り過ぎる、或いはすぐ近辺を通り過ぎる、その状態で全然違うんですね。「ものに対するシンパシー」みたいなものが強い人間とそうでない人間は当然あります。ですから、何かこれは作られて何か変だけど興味あるなぁっていう人間はものに近づいていく。そうでない人は関係ない「外れの方」を歩いていく、これもまた一つの在り方ですね。

(4)「そこ」という名の「全体」/全体性からは中心が抜けていく
 僕は、仮にそこにものを置いたにしても、そこが「中心」或いは「中央」であると考えた事は一度もない。ただ僕がこう全体を見回してですね、ここに置いたら一番このものがよく見えるんじゃないだろうかと。実際それは単に感覚の問題だけじゃなくて、空間全体をずーっと見渡した時に、不思議とものを置く場所って解るんですよ。アーティストにとっては、何にもない真っ平らな場所を見た時に「あ、ここに一つあったら、ここ全部生きるよ」という事が瞬間的に解ってしまう。これは不思議で、まぁ職業柄というか、プロ意識というか。要するにその空間を、一番高度な精神性に結びつけて考えるシステムが、確立しているという事じゃないでしょうか。
 少なくとも、パッとある空間に入った時に、見えるんですね、ここに何かあった方がいいと。で、結局そうなっちゃうんですよ。そうすると何もないだだっ広い空間がですね、ものが置かれると途端に、「ものの波及性」っていうのかな、波のようなものがそこからザーッと出た瞬間に、全体がすごく緊張感を帯びてくる。今までボーッとしてたものが、「全体というもの」が見えてくるって事があるんですね。そうすると、どうも全体を見る力って必要なんだなっていう事が解ります。
 で、「全体性」っていう事になると「中心」みたいなものは抜けていきます。例えば一つの空間にものが置かれて、そこに「全体性」の認識が成立するとですね、今度は特殊な空間性をそこに付着しないと、ものが成立しないという逆の事が成立します。それはどうも、アーティストにとってはまずいんですね。本来はどこでもいいんだと、なにも選んでですね、ここが一番いいから置くんじゃなくて、「そこ」でいいんですよ。「そこ」と言うしかないですけど。「そこ」に置けばいいんだという考えでしかね、ものを扱わないように意識的にしていく事になります。
 確かにA、B、Cがあって、Aに置けば一番いいけれども、B、Cでもいいじゃないかとだんだん考えるようになった。B、Cというのは、制作思考の中ではやっぱり「外れの方」かな、ここに成立させるにはよほど考えないといけないかな、という状態の所が多い。本来的にはそこを避ける事はない、許容範囲としてはあるわけだから。そうすると、ある一定の空間を考えた時に、もう無数に置かれる場所は成立していく、という風に考えた方がいいんですね。
 ただ、自分の考えと、観客の意識みたいなものとは全然違いますから。観客に対してはやっぱり最高のものを見せる、最高の状態でそれを認識して貰う、というのは親切なやり方です。でも、僕はある時からそういう親切心はちょっとまずいだろうと。見たい奴は見る、見たくない奴は見なくていいっていう、これは傲慢性がありますけど。でも、その空間に入ってきた瞬間に、その人は見たくなくても見る、っていう風になる場合だってあるんですよ。それぐらいの、ある種の「システムの力」を持ってないと作品は成立しない、という事でしょうか。
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(図録"ICANOF Media Art Show 2004"より転載)



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