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風景をハグ(剥ぐ・接ぐ)(L)ANDSC(R)APE/(EX)FOLIATE 〜 II
(03年9月7日/国際交流基金フォーラム(溜池山王)/に加筆校正)

出席/太田省吾(演出家・劇作家)
八角聡仁(批評家)
豊島重之(ICANOFキュレーター)



(3)図の演劇に対する地の演劇/「布置」の変更は可能か
八角  もう一つは、風景が問題にされる前提として、まずは風景が発見されなければならない。「風景の発見」という言い方も、もはやクリシェかも知れませんが、敢えて繰り返しておくと、風景が風景として見出されるためには、ある視点の転換、或いは「認識論的な布置の変更」が必要になるという事です。それまでは何かの背景にすぎなかったり、出来事が起こるための中立的な場であったりしたものが、それ自体として前景化される事によって、初めて風景が風景として現れる。
 例えば太田さんの「沈黙劇」というのも、そういう文脈で理解される事があります。今まではそこで劇的な出来事が起こる背景としてあった時間や空間が、それ自体として主題となる。或いは台詞と台詞の「間(ま)」が前景化される。つまり「図」に対する「地」であったものが主題として現れてくるわけですね。
 そういう図式だけで語っては単純すぎるし、抜け落ちてしまう事も多いのですが、ひとまず今日の上演でも、所謂、劇的な出来事というのは何も起こらない。むしろ何かが起こるためのニュートラルな場だと思われているものが出来事を組織していく。但し、勿論「図」に対して「地」を見出したと言った途端に、それは既に「地」ではなくて「図」であるわけですから、実はそれだけでは何も言った事にならないわけです。風景論という言説そのものが新たに制度的な風景を作り出してしまう。そのジレンマを回避するために、ひとまず「周囲なるもの」と言ってみなくてはならない。或いは「剥ぐ」だけでなく、「接ぐ」事も必要になる。


©YOSHIDA Tohru

 ついでに「声と文」という処にも少し触れてしまいますが、ひとまず倉石さんのテクストを一応離れて言えば、文というのは声の記録や再現としてある限りにおいては、それ自体として見えてこないわけです。例えば戯曲に書かれた「文」は、一般には「声」の再現、或いは「声」を再現するための媒介だと看做されている。ところが、今日の舞台もそうであったように、しばしばモレキュラーシアターの上演では、その「文」が「声」とは違うものとして扱われて、まさに「声」という「風景」を剥ぐ・接ぐものして出現するわけですね。
 それでもう一つ付け加えると、「イタドリ」という植物に関するエピソードを私は何も知らなくて、モレキュラーシアターで「イタドリ」と言うからには、板を取るんだろうとは思ってましたが(笑)、イタというのは勿論、舞台の床面を指す言葉でもありますから、イタを取るというのは、演劇の基盤なり根拠なりを無化するという意味も当然あるだろうと。さらに、こうして写真展も併催されているぐらいですから、写真を撮る、或いはイタを写真に撮るという事にも繋がっている筈です。
 写真というのは、一方で風景を成立させる遠近法と結び付いていますし、まさに風景と共に出現するわけです。基本的に写真は全て風景写真だという事もできる。見慣れたもの、馴染み深いものが、写真に撮る事によって疎遠なものとして現れる、或いは異化される。そういった写真の持つ性質がこのタイトルを付けた豊島さんの念頭に多分あったのではないかという気がしております。

(4)「純日本的」な風景美と「準日本語的」な演劇
豊島  非常に多岐に渡るお話だったので、どこかに焦点を絞るのが難しい。太田さんからもお話を頂いて、それから的を絞っていきたいんですが。
太田  今日の上演、面白く見せて頂きました。まず、豊島さん自身の事を考えてしまいました。直接見せて頂いたのは、80年代半ばだったと思います。僕がやってた転形劇場のスタジオで、漏斗を顔にくっ付けてやった、カフカの手紙を使った作品。今日、使った言葉は、翻訳文めいた批評言語で、カフカの手紙も翻訳言語でしたが、つまり「準日本語」。僕から見ると、普段喋る豊島さん、お書きになってるものも「準日本語」だと思うんですね。それが、豊島さんにとって結構エロティックで、それじゃないと刺激されないんじゃないか。そういう準日本語が作った舞台。あぁいう批評言語が、しかも準日本語でもって演劇になっていくという処に、非常に刺激されました。
 で、八角さんが言った「風景の発見」という事ですけれども、僕の場合、体験的に言うと、坂口安吾なんですよ。要するに、法隆寺にしても平等院にしても、あんなの無くていいと。で、小菅刑務所とかドライアイス工場とか軍艦とかの方に美を感じるってやつですよ。戦後の荒廃した風景の中に、小菅刑務所やドライアイス工場という色気のないのが建っていて、こっちなんだと。法隆寺や平等院は、何か納得しなければならない美であって、日本的風景美と言われるものは、つまり率直じゃない。安吾にとっての近しい風景とは率直さを持ってるものであって、そこに彼は惹かれていく。
 これを少年時代に読んで非常にびっくりしました。「あんなのは潰れていい、焼けてしまっていい、一向に困らぬ、必要ならば法隆寺を取り壊して停車場を造るがいい」というような事を書いていて、これにはかなりショックを受けました。安吾は、合理主義による批判の目を初めて風景に向けたわけです。で、これの限界というのもあると思うんですね、つまり合理主義的文化論の限界。所謂、日本的な風景美も、それに対する批判も、共に「実在についての揺るぎなさ」に囚われているんではないのかと。
 今回、風景について話す時に、豊島さんにとっての必要性、これを主題化する欲望がどこにあるのかな、って事を結構考えさせられたんです。今、実在という事を言いましたが、実在の揺るぎなさに対する疑いがあるんじゃないかと。つまり世界の仮象性、世界は仮の姿だという、そういう目を持った時に、どういう風にリアリティを獲得するのかという事ですね。仮象、或いは実在ってものを疑うっていう、この目があるから、風景を剥いでみようという欲望が起きてくるんじゃないかと思う。
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(図録"ICANOF Media Art Show 2004"より転載)



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