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風景をハグ(剥ぐ・接ぐ)(L)ANDSC(R)APE/(EX)FOLIATE 〜 II
(03年9月7日/国際交流基金フォーラム(溜池山王)/に加筆校正)

出席/太田省吾(演出家・劇作家)
八角聡仁(批評家)
豊島重之(ICANOFキュレーター)



(5)「リアルな=本気にできる」物語と「アンリアルな=本気にできない」物語
太田  京都駅を御覧になった方も多いと思いますが、僕も東京から京都の大学に通う度に、原広司さんの設計した、あぁいう京都駅でよかったといつも考えるんです。もしあれが、法隆寺や平等院みたいな和風の京都駅だったら困ったなと思ってたものですから。原広司さんの考え方というのは、これからの建築はフィクショナルなものに沿って構築されていくだろうという立場で、これは、風景を剥いだ後どうするか、という事を考える時に手掛かりになる考えだと思うんです。


©SHIMOTOMAI Atsuko


 建築家はとにかく作らなくちゃならない。風景というものと密接した処で仕事していかなくちゃならない。剥いでるだけじゃ済まないわけです。原さんにとっての近代批判というか、近代建築批判というのは、近代建築は如何にリアルなものを建てられるかという方向でやってきたけど、彼は「アンリアル unreal」な建築という方向を提起したんですね。
 アンリアルって、変な言葉ですが、普通は、非現実と訳される。ところが原さんが、ある時、エリオットの『荒地』を読んでいたら、「アンリアル・シティ= unreal city」という言葉が出てきたんだそうです。吉田健一さんはそれを「本気にする事ができない都会」と訳してあった。普通ならそういう訳は出てこない。リアルという事を考えに考えていた時に、これだっていう訳に辿り着いたんではないかと思うんです。
 「本気にする事ができない」という事を逆に言えば、リアルなものは本気にできるという事、つまり、実在かどうかじゃなくて、本気にできるかどうか、という物語の方にウェイトがかかっていくわけです。さらに言えば、リアルである事自体が、リアルであると信じている物語になるという事だろうと思うんですよ。そこの処に、アンリアルを、本気にする事ができないと訳した重要さがあったと思う。
 一方でリアルなものを置き、他方にフィクションを置いて、その対比的構図を描き、その中で僕らは日常的な生活を安定させて送っているし、そうじゃなきゃ生きていけない。その両方が対比的に、区別されて働いている世界。リアルな世界に住んでいる自分としては、アンリアルなものも崩されたくないと。それが崩されちゃうと、相当、危険な事になる、という風に安定的な構図を日常的に求めていて。演劇もそうだし、京都駅もそうだと思うんです。

(6)「堅固な実在」への疑いと「脆くも危うい仮象」への傾き
太田

©SHIMOTOMAI Atsuko

 ある意味では、全部、物語なわけで。本気にする事のできる物語に住むか、本気にする事ができない物語に、危険を冒して住むかという話になります。原広司さんの考え方は、この危険な処に、実は歓びがあるんだと、アンリアル=本気にできない処が新鮮さを生む場所なんだと、安定的な建築にはそういう視点がないんだ、という事です。
 確かに京都駅には、華やぎのようなものがあって、危険を踏まないと、それは生じてこない。改札口を出ると、左の方にすごく長い階段があって、その途中からはもう屋外になっている。こっち側にカフェがあって、そこのカフェから見ると、その階段が正面に見えて、ちょっと天気の悪い時なんか霞みがかかるくらいです。しかも、色んな様式のものが勝手に並んでいるような玩具箱みたいな華やぎもあって、危険を踏んだ思想があるからこそ出てくるアンリアルな風景。いまだに僕らは、所謂、19世紀的な「風景の発見」を引き摺って生きてるんだけれども、そこに実在論を疑うという物の見方を注入してみたらどうだろうか、と。
 動かしがたい実在というのがある。言ってみれば、それを信じない、そこを疑ぐってかかるわけですよね。それを逆に言うと、仮象性、ガッシリした実在性ではない仮象なるものが、ある意味では、新しいリアルを生む場所だと思う。風景を問題にしようとした豊島さんの欲望というのは、そこなんじゃないか。つまり、「剥ぐ」って事は、実在論的にリアルだと思えるような姿を剥ぐという事だと思うんです。勿論、風景を剥いだ後どうするのか、という次の問題もあるんだけれども、まずは先に「剥ぐ」という事をやらなくちゃならないと、豊島さんは考えたんじゃないかと思って、臨んだんです。

(7)視えてはいても見ていないもの/視てはいても見えていないもの
豊島  「アンリアル=本気にできない」には、虚を突かれました。というのも、アンリアルと言うと、どうしても不気味なもの、ウンハイムリッヒ、よそよそしいものを考えがちだったからです。むしろ、そういうのは、アンリアルではなくリアルの方だと言うべきなんでしょうね。
 今の太田さんの、実在と仮象というお話にもすごく触発されまして。もう少し身近な話で言うと「デジャヴュとジャメヴュ」。deja-vuというのは、一度も来た事がないのに初めて見るはずなのに、どうも見た事があるっていう「既視感」。逆に、jamais-vuの方は、普段見慣れているはずのものが、今まで見た事もないものに変容する、何やらよそよそしく感じられるっていう「未視感」ですね。
 デジャヴュが最も遠いものを身近に見出すという、失われた起源を内部に求めるロマニズム的な風景だとすれば、ジャメヴュの方は、身近なものを遠ざけていく「離人感」にも似たマージナリズムの風景と言う事ができます。これは先程の八角さんの写真論・風景論にも繋がる話で、このジャメヴュ=未視感を「周囲なるもの」に見立てる事もできるんじゃないでしょうか。
 八角さんも言われましたが、周囲なるものとは、中心に対して周囲って事では、あくまでない。端的に言えば、人の網膜には、視覚情報が全部入ってくる、視覚情報以外の世界もどんどん入ってきている。にもかかわらず、見ているのは、そのごく僅かな情報だけなんですね。「視えてはいても、見ていないもの」或いは「視てはいても、見えていないもの」。それを周囲なるものと看做していいんだと。
 そのキーワードというか、ヒエログリフが「イタドリ」なんですよ。日本中どこにでも見かける、何の変哲もない雑草。誰も気に留める事のない、よそよそしさの欠けらもない植物。それが、西ヨーロッパでは異常繁殖の猛威を振るって、今や「イタドリ絶滅計画」のターゲットですから、ある種「アブジェクシオン=おぞましきもの」なわけです。
 しかもイタドリは、19世紀半ばという「歴史的記憶」を分有していて。つまり、シーボルトによって日本から西欧にもたらされたのが19世紀半ば、という事は、植民地戦争のメタファであり、風景写真のメタファでもあった。太田さんが言われたように、今まさに我々は、19世紀半ばという「収奪と内乱」の歴史的記憶の渦中にいる、と言える。それがないと、私はこういうタイトルを付けなかった。こうして口に出してしまうと、別にイタドリでなくても何だってそうだったという異論があろうかと思いますが、ここでは、他のタイトルであるわけにはいかなかった、という事でしょうか。
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(図録"ICANOF Media Art Show 2004"より転載)



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