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イカノフ風味──家庭アート菜園のつくり方
RECIPE FOR HOME ART FARMING
豊島重之(ICANOFキュレーター)



豊島重之 - pinhole shot by KIM Yongfhe
© KIM Yongfhe



 家の中に植物があるといい。名前も葉ぶりも大げさな観葉植物じゃなくて、その辺にいくらでも生えていそうなスイバやカタバミ、オオバコやハコベラといった道草のたぐい。花や木もいいが、花や木は小ぶりなものほど凛とした趣きがあって、それでついこっちも凛とさせられてしまい、かえって落ち着かなかったりするものだ。

 その点、草はいい。丈の低い草ほどいい。草には、ものを言いたげな風(ふう)がない。あっても風のそよぎと区別のつかない、私語のさざめきのようなものだろう。それに比べれば、花や木は、冠婚葬祭と結びつけられてきたイメージもあってか、なにかと騒々しい。どうかした拍子に、無言を返してきそうな、つまり意味をもった応答をしかねない、そんな羽ぶりのいい葉ぶりがある。ことばを言葉とは、よく言ったものだ。

 家の周りに草地があるというんではなく、一間(ひとま)をぜんぶ草地とした家なんて、今どき、よっぽどゼータクな話で、たいていは、ツメクサやカゼクサ、ミチシバやオイシバ、あるいはタビラコやモジズリやブタクサなんかをプランターに植え分けて、家のあちこちに置いたり吊ったりするのが関の山だろう。せめて、家相や風水の気の流れに則(のっと)って草のインスタレーションを塩梅(あんばい)する、それも好き好きであって、それ以上の意味はない。そこが草のいいところだ。

 これを家庭菜園と呼んだら、本腰を入れて野菜づくりに丹精している人たちのヒンシュクを買いそうだが、そこは広義のホーム・ファーミング、本格派から素朴派までピンからキリまであって当然だろう。野菜農家からみたら、どっちにしろ、つましい話だ。というような、大上段に振りかぶった話をするつもりはない。ただ、ホーム・ファーミングは、骨の髄まで消費者であることを強いられる世相にあって、少なくともそこだけは生産者である余地を甦らせてくれる気はする。

 では、草のプランターとの倹(つま)しい同居を慎ましくも楽しむオオバコ派やハコベラ派(うちの場合は、さしづめ、さらに肩身の狭いカタバミ派といったところか)のほうはどうだろう。草を見る、草を嗅ぐ、草を摘む、草を食べる、その点では明らかに消費者であり、消費者以外ではありえない。これを丸ごと生産者へと転換できないだろうか。手立てはないこともない。その一つがアートであり、そのレシピの一つが写真なのだ。

 私たちは草に生かされている、というような物言いをよく耳にする。草魂なんていうモットーを平気で口にするやつもいる。こんな物言いに丸めこまれる前によくよく吟味しておく方がいい。たとえば、草に水をやる、という時、水は消費されるが、草は草を生産する。草を食べる、という時、草は消費されるが、身体は歓びという精神を生産する。では、草に目をやる、という時、目は消費されるのか、生産されることになるのか、そして、草は、草はどうなるのか。草は草のままだ。草は目に映じただけで、草自身はどうにもなりはしない。いつものように人の耳には聴きとれない私語を交わしているだけだ。これが写真であり、消費だか生産だかよく分からないものが写真なのだ。

 写真が生まれて160年、映画は100年、テレビは50年、そして、ケータイ・メディア元年。見るという欲望が、消費のメタファであり、生産がおしなべて消費の生産のことを意味した消費社会の駆動力であったのは、たかだかこの50年のことにすぎない。それ以前から、それ以後もずっと、見る欲望と撮る欲望の危ういパラドクスを、写真は果敢に生きてきた。そのパラドクスに、その危うさに明晰であればあるほど、盲目的に生きてきたと言ってもいい。草を見る、もっと鼻を近づけて見る、草に分け入って草の丈で草を見る、もはや見るべき草はどこにもなく、ただ、草の私語に耳を澄ますほか手はない。写真を撮るとはこういうことではなかろうか。

 やはりレシピが要る。アルゴリズムと言ってもいい。手順だ。まず、草を写真に撮る。毎日、同じアングルで何枚も撮る。それをカレンダーに貼付する。カレンダーだって、イヌビエ、イヌスゲ、イヌタデ、イヌナズナ、オオイヌフグリ、いくつあっても足りない。生命の設計図とも言うべきゲノム解読競争で一躍名をはせたシロイヌナズナ。だったら、アカネコヒメジオンに挑戦してもいいかもしれない。それぞれ焼きぐあいを白っぽくしたり、赤っぽく仕上げてみたらどうだろう。何ヶ月かすると分厚く重ばってきて、いささか不細工だが持ち重りのするカレンダー・オブジェが出来あがる。題して「日々草(にちにちそう)」。それって、なんかキレイすぎない? という向きには、写真の発明が新聞などのプリント・ジャーナリズムの技術革新に基づいたという含みをこめて、「しのぶ文字刷り」。それって、こりすぎじゃない? という向きには、単に「埋め草」。いっそのこと、カレンダーから離れてみたら? という向きには、指で弾じくパラパラマンガみたいに、撮りためた写真をパラパラッと一度にめくって見るというのはどうだろう。題して「私語する草/草のみた夢」。

 家庭菜園をアートにする。ホーム・アート・ファーミングにしてしまう。アートというのは、本来、ホームレス(ボーダレスよりはずっとマシな語感ですからね)みたいなものだけど、色んな人がそれを手にとって見たり、チラッと見てサッと歩を返したり、待ち合わせ場所だったら、あのコンビニの前じゃなくこのアートの前にしようとか、そういうプラットホーム(スペルは違うけど)のホームだと思ってほしい。どうです? あなたもひとつトライしてみませんか?


(ICANOF free press 00より転載)



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