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ICANOF-hosted/joint/associated Projects & Events

モレキュラー・シアター公演『Ballet Biomechanica(バレエ・ビオメハニカ)』

Molecular Theatre performance "Ballet Biomechanica"

『バレエ・ビオメハニカ』アフタートーク#1

2007年10月6日 会場:青森県立美術館ギャラリー[註1]


講演「ディアギレフからカバコフまで」

講師:鴻英良 OTORI Hidenaga (演劇批評家・ロシア芸術思想)


(1)生還してくる言葉/カバコフとメイエルホリド

鴻英良
OTORI Hidenaga
 初めまして、鴻といいます。今日は、ディアギレフの活動を中心にした展覧会ということで、彼の話をすることになるんですけれども、つい最近、イリヤ・カバコフというソヴィエト・ロシアの非常に重要な画家が、60年代と70年代の自分たちの芸術活動について書いた本を翻訳したばかりなので、その最近の画家の話と、20世紀初頭のディアギレフ・バレエの話を繋げながら考えていきたいなと思っています。
 たった今、豊島さんが演出された『バレエ・ビオメハニカ』[註2]という作品を観たばかりで、このディアギレフ関連の『舞台芸術の世界展』という企画展の中で、豊島さんのこの作品が上演されたことの意味については、おそらく僕のこの話の後で、シンポジウム形式で色々と議論になるかと思うんですけれども。一言だけ言っておきますと、気付かれた方もいるかも知れませんが、最初にずうっと、いわば囁き声のように後ろの方から聴こえてきたあの言葉はですね、最後に明かされますけど、1940年に国家反逆罪で処刑された、世界的に重要な演出家メイエルホリドが、その前年に演出家会議の席で自分の立場というものを語った言葉なんですね。つまり、きわめて重要な演劇的な活動をしてきた人が、その演説をした翌年に処刑されているのです。その演説から今日の作品が始まっているわけです。
 僕が翻訳したカバコフという人は、1960年代70年代に活動していた人なんですけれども、彼もまた、ソヴィエト国家によって作品の発表を禁止されていた画家なんですね。その彼が1982年から86年にかけて、60年代70年代に活動を禁止されていた無数のソヴィエトの画家たちについての文章を書き残したわけです。それがたまたま1985年以降のソヴィエトにおけるペレストロイカの流れの中で、皆さんご存知のようにソヴィエトという国家が解体し、そしてその解体のプロセスの中で多くの人たちの活動が可能になっていく。その中で1999年にウィーンでロシア語で出版された、その本を僕が訳したんですが、もしかしたら発表されることはないかも知れないけれども、60年代70年代にソヴィエトの地下の芸術家たちがどんなことをしていたのか、ということを書き残したものなんですね。
 そういう意味で言うと、今日のパフォーマンスの最初に読み上げられていたあのテキストも、もしかしたら我々は読めなかったかも知れない、そのテキストが何らかのかたちで我々のもとに伝えられてきた。このテキスト自体が世に現れたのは確か1988~89年頃でしょうか。つまり1939年に語られたことが、それから50年もあとになって、人々の目の前に現れてきたという、過去の証言の記録が、ある偶然によって或いは色んな人の努力によって我々のもとに届けられた言葉が、今日、豊島さんたちモレキュラーシアターの舞台で取り上げられているんですね。それで僕は、自分が翻訳したロシア語のテキストと似たようなかたちで我々のもとに届けられてきた言葉、という意味で、カバコフの60年代70年代の出来事に対する証言記録とですね、メイエルホリドの証言の記録が保存されていたということとが、ある種の共通性を持っているなというふうに思いながら観ていたんですけれども。

(2)追放からの出立/ディアギレフの原動力の所在

 それで、これがディアギレフとどういう関係があるのか、関係ないじゃないかって、ディアギレフのことをある程度知っている人なら言うかも知れません。これは、ディアギレフを問題にするときに、それほど主要なテーマになっているかどうか、ちょっと僕はよく分かりませんが。というのは、少なくとも本展カタログには書かれていない一つの事実があるんですね。
 セルジュ・ディアギレフは1872年に生まれて、1900年前後から色々と活動しはじめます。その初期の活動の中で、ペテルブルグの、かつてのロシアの首都ですね、そこの帝室バレエ劇場であるマリインスキー劇場のディレクターになります。このこと自体はカタログに書いてあったと思いますが、ボルコンスキー公爵という人がディアギレフの才能に惚れ込んで、帝室マリインスキー劇場で仕事をしないかとディアギレフに言って、そうして彼はそこで仕事をするようになるんですね。それで、帝室マリインスキー劇場のディレクションをすると同時に、そこの「年報=アニュアル」の編集もするようになる。そのことによって何が起こるかというと、きわめて因襲的な雰囲気が漂っていた権威的主義的な劇場の中で出版されていた、あまり面白味のない年報が、一気に魅力的になる。
 というのは、その当時のロシアの若い画家たちを巻き込むかたちで、その紙面がガラッと変わったからです。それからもう一つは、新しいバレエの企画を次々に打ち出していきます。その中に新しい画家たち、新しい芸術家たちを巻き込もうとする努力を始めるんです。ところが、それまでその劇場で仕事をしていた重鎮たちにその動きを阻害されてしまい、そして、パトロン的な役割を果たしていたボルコンスキー公爵が、結局ディアギレフを守りきれなくなって、ディアギレフはそこを解任されるんですね。たった二年間だけやって解任されています。解任されたときにディアギレフは、ディレクターを解任された以上は、私は年報の編集も下りたいと思う、と言うわけです。
 その後、ここのところがよく分からないんですけれども、ディアギレフは、ここは帝室劇場ですから今で言うと国立劇場にあたりますね。つまり国立劇場とか、国立の芸術機関から永久追放されるんですね。[註3]そのことによってディアギレフは、ロシアのきわめて重要な芸術シーンから追放されてしまうわけです。その意味で、追放と処刑というのは、もちろん違うし、カバコフのように、作品の発表が事実上できないというのと、国家機関から追放されているけれども芸術活動はできるというのは同じではないにしても、このディアギレフの姿というのは、ちょっと意外な感じがします。そしてこれが、ディアギレフの芸術活動の出発点だったということは、もしかすると、きわめて重要な意味を持っている可能性があります。
 というのは、ディアギレフについての色んな伝記を読めば分かるんですけど、彼は非常に富裕な家庭に生まれてるんですね。近衛騎兵隊の将校の息子で、ディアギレフが住んでいた家の写真などが残っていますが、広い客間にピアノが置かれていても全然、狭苦しくないような、広大な邸宅に住んでいて、イメージとして大金持ちという感じがします。で、その後の豊かなディアギレフの芸術活動は、そうした富裕な家庭に生まれた、芸術的感性豊かな人の活動というふうに考えられていますし、事実そうなんですけれども、その出発点に、今言ったような国家機関からの追放という、かなり重大な経験をしている。おそらく、それに対し、跳ね返していくエネルギーというものが、ディアギレフのその後の活動の原動力になっていく、ということを念頭に置いておくといいかなと思います。

(3)プロヴィンシャリズムの芸術/カバコフとディアギレフ

 それともう一つ。カバコフはですね、カバコフ自身の芸術についての重要な特徴をいくつか自分で語っています。それはカバコフの作品をご覧になった方ならば分かると思うんですけれども、彼のインスタレーションの中には、きわめて沢山の文字テキストが入っている。つまり、我々は図像的なインスタレーション、空間的なインスタレーションと、それから文字テキスト、を同時に見る、同時に読む。そのことによって、カバコフの世界観そのものが立ち現れてくる。それを彼は「トータルインスタレーション」と言っていて、そういう、文字テキストと図像というものが対等の関係にあるような作品を作っている、それが自分の芸術理念だというふうに彼は自分で言っています。
 そういういくつかの特徴を、カバコフは自分の作品について言っているんですけれども、その中でかなり珍奇なというか、非常に不思議な自己規定もしていて、それはロシア語で言うと「プロヴィンツィアリズム」。プロヴィンシャル、田舎・地方ですね。「地方主義」と訳すか「田舎者的なもの」と訳すか。普通、この言葉は「田舎者根性」って訳すんですけれども、自分の作品は言ってみれば田舎者根性の結果である、という言い方をしています。それはカバコフ自身、モスクワというソヴィエトの首都ではなく、田舎で生まれてるからですね。
 要するに、田舎から遠い首都モスクワで起こっていることを見つめながら、一体そこで何が起こっているのか、ということを必死になって調べたり勉強したりしながら、そこで起こっていることは何でも自分が出来なくちゃいけない。ともかく無数の情報を取り寄せてそれについて考えて、あたかもモスクワの首都に住んでいる芸術家であるかのように振る舞う。これを「田舎者根性」と言っているわけですね。そのことによって、モスクワに住んでいるアーティストたちには思いもよらないような新たな芸術的な展開をすることができたんだと、やや自嘲的であると同時に、ある種の誇りでもあるような、そういう精神によって作品を作り、世界を見ていく。これを「田舎者根性」とカバコフは言っているわけです。
 このことがディアギレフとどういう繋がりがあるのか、ということについて僕は事前に考えていたわけではないんですけど、今回の企画の話があって、たまたま『ディアギレフとロシア芸術』[註4]という本を読んでいましたら、「プロヴィンツィアルヌィ・ディアギレフ」っていう言葉が出てきたんですね。なんだなんだって僕は思って、つまり、ディアギレフを形容するときに「田舎者のディアギレフ」っていう言葉があるらしいんですよ。これにはちょっと驚きました。
 どういうことかと言うと、さっきディアギレフの親が、近衛連隊の将校であったことを話しましたけど、近衛連隊って軍人です。軍人というのは色んな所に駐屯するわけです。その当時はペテルブルグが首都ですけど、彼らは必ずしもペテルブルグにいるわけじゃない。ディアギレフが生まれたのは確か、白ロシアの辺りのノヴゴロド県グルジノの領地で、10歳くらいまでそこにいて、10歳の時にちらっとペテルブルグに戻ってくるんです、親がね。ただ、その直後にまたペルミに行きます。ペルミというのはモスクワから1000km以上離れている、ウラル山脈のすぐ近くの、かなり北の方なんですね。そのペルミの邸宅に住んでいるんです。そこでギムナジウム、中学校から高等学校くらいの期間を過ごす。つまりペルミという町に駐屯していた軍隊の近衛重騎兵の息子として、裕福な暮らしをしていたんです。
 しかしペルミというのは、やっぱりペテルブルグじゃないわけです。これはどういう町かというと、『三人姉妹』というチェーホフの作品がありますけれども、あれは姉妹が「モスクワに行きたい、モスクワに行きたい」という話ですよね。その三人姉妹が付き合っている男たちは、ほとんど軍人たちで、あの軍人たちが出入りしている屋敷が、ちょうどディアギレフの家と同じようなものなんですね。チェーホフの『三人姉妹』には場所がどこなのかって書いてありませんけれども、あの作品に出てくる地形学的な構造を調べていくと、近くに鉄道が通っていること、かなり大きな地方都市であること、モスクワがそれなりに遠いこと。さらに、最後に軍隊が移動していくときに、ちょうど露土戦争が起きる頃ですから、軍隊は南に向かっていくわけです。南に向かっていくときにモスクワを通過すること、つまりモスクワの方に消えていくこと、それらを考え合わせてみるとペルミなんですね、あれは。つまり、三人姉妹たちの生活のようなものをディアギレフはしていたに違いない、と僕は思うんです。
 それで何が言いたいかというと、あの三人姉妹がモスクワに憧れているように、ディアギレフもペテルブルグに行きたいとずうっと思っていた。で、ペテルブルグ大学の法学部に入学します。それで初めて彼はペテルブルグに行くことができるんですね。その結果、彼はアーティストの卵たちに出会うことになる。本展にも沢山、展示されているレオン・バクストとか、ベヌア(ブノワ)とかに出会うわけです。そのときに、ディアギレフは、ずっとペテルブルグで暮らしていたベヌアとは違って、田舎からやってきた「田舎者のディアギレフ」と言われていた。これはカバコフが「プロヴィンツィアリズム」という言葉を使いながら自分の芸術について語るときに、先日、彼に会った際にそれを訊くのを忘れちゃいましたけど、もしかしたらディアギレフが「田舎者のディアギレフ」と言われていたことを念頭に置いて書いている、その可能性があるなと思うのです。

(4)帝室劇場「年報」と「芸術の世界」誌/編纂力の経験

「田舎者のディアギレフ」が、ペテルブルグの文化に憧れて、ついにペテルブルグに来ることができた。そしてそこで、きわめて芸術的香り豊かな人たち、芸術家の卵たち、画家の卵たちに出会った。そのことが、新しいロシアの芸術の動きというものに対して熱烈にインヴォルヴしていく、いわばのめり込んでいく、その非常に大きな理由になっている。そして誰よりも熱心に、一体ロシアで今、何が起きているのか、ロシアの芸術家たちは何をしているのか、ということに興味を示すわけですね。それが、彼が芸術家サークルの中心を作り出していく大きな理由になるわけです。
 さらに、この「田舎者」というのは、もう一つの意味合いがあります。実は、そうは言ってもペテルブルグというこの都市自体が、パリに比べたら田舎ではないか、ということなんですね。従って、ディアギレフはロシアの多くの芸術、例えばロシアのイコンから19世紀のリアリズム絵画、レーピンだとか、そういう移動展覧派の絵画ですね、そういうものにも強い関心を示したと同時に、自分と同世代の人たちの動きにも強い関心を示した。さらにもう一つ、西ヨーロッパですね、オランダ、イタリア、フランスとかスペインとか、そういうところで何が起こっているのかということにも強い関心を示します。そして実際に西ヨーロッパに出かけていき、多くの美術館を巡って、色々な西洋絵画、西洋芸術についての知識を身につけて、ペテルブルグに帰ってくる。
 これはかなり決定的な出来事で、それ以降、ベヌアとかバクストたちはディアギレフのことを「田舎者」って言わなくなるんですね。それでディアギレフは、ロシアの絵画についても、きわめて詳しいし、同時にヨーロッパの絵画についても、かなり詳しいという、いわば芸術愛好家としての活動を始めます。それがさっき話しました帝室劇場を解任される前のことなんですね。それよりも前に、そういう活動を開始しているんですね。実際にその結果、芸術サークルを作ります。それが「ミール・イスクーストヴァ」というんですけれども、ミールは「世界」、イスクーストヴァは「芸術」ですから、「芸術の世界」というグループを作ります。そして『ミール・イスクーストヴァ』という雑誌を出すんですね。
 これはものすごく豪華で、その当時にしては、というか、いま見ても、とんでもなく素晴らしい雑誌なんです。そこに、ロシアの画家たち、そしてヨーロッパの、フランスとかそういうところの画家たちの絵の写真を載せながら、それについての批評を書いていく。そこから、バクストとかベヌアたちが育っていくんです。つまり彼は、こういう人たちと共に成長していき、そして先程、言ったように帝室オペラ劇場のディレクターになって、ますますその活動が豊かに広がっていくと思いきや、解任され、言ってみれば除名されるっていう、挫折を味わうんですね。しかし彼は、そこから色々なことを考えていくわけです。
 ディアギレフのバレエ・リュスというのは、1909年に始まるわけですけど、1901年から1909年くらいまでの間にですね、彼は実は色々なことをやっていて、1906年にはフランスでロシア絵画展というのを開く。最初は絵画展を実現するんですね。その後1908年に『ボリス・ゴドゥノフ』、本展にもシャリアピンが着た衣装が飾られていますけれども、その舞台を持って、パリのオペラ座で上演してですね、その翌年に、ついに、断片、五つのエチュードを、要するに「バレエ・オペラの断章」をパリのシャトレー座で上演して、そして一気にパリの芸術界の寵児になるわけです。『ボリス・ゴドゥノフ』はオペラ座で上演してますけど、その翌年のバレエ・リュスが、オペラ座ではなくてシャトレー座で上演されたというのは、これもロシアの芸術界による妨害があったからなんですね。
 つまり、かなり彼は苛(いじ)められつつ、色んなことを実現していくんです。ものすごいエネルギーを使って彼は芸術活動のオーガナイザーになっていった、ということが言えるわけですけれども。いくらエネルギーがあっても、頑張り屋でも、あなた方、何やってんのって言われてしまったら終わりなわけですけれども。なぜ、このロシアから来たディアギレフたちのグループと彼らの舞台が、それほど熱狂的に迎え入れられたのかということについて、やはり考えてみなくてはいけない。

(5)外部から吹き荒れる異風=ポロヴェツ/スキタイ的なるもの

 これはやはり「田舎者」と関係があるんです。カバコフがモスクワで無数の芸術家たちを組織し、そのグループの中心になってきたような、いわば外側の眼と、それからもう一つ、外から持ち込んだものという、この二つが重要なわけです。バレエ・リュスには、いくつかのとりわけ重要な舞台がありますが、1909年に上演されたものの中で最も重要とされるのは、ポロヴェツというある種の民族、と呼んでいいかどうか、『イーゴリ公』の中に登場する〈ポロヴェツ人たちのダンス〉というのが、とりわけ熱狂的に迎え入れられるんですね。
 このポロヴェツというのはロシア人ではない。ウラル山系とボルガ川の間にいた人たちです。カスピ海とか黒海をちょっと思い浮かべてもらいたいんですけど、そのカスピ海の北側の草原地帯に住んでいて、移動を繰り返した遊牧民族です。やがて、今だとウクライナ辺りに移住してくる、そうしたテュルク系の民族がいてですね。我々は普通はタタール人とか総称したり、モンゴル系とかとあまり区別が付かない、僕なんかも厳密に区別しろって言われると困るんですけど、そういう草原地帯の騎馬民族なんですね。
 この人たちの、荒々しい身振りというか動き、そういうものはロシア人にとっても実は困りものだったんです。12~13世紀ぐらいに、ロシア、その当時のキエフに攻め入ってきたりしていて、キエフ公国にとっては困りものなわけです。野蛮人、蛮族っていう、ちょっと差別語を使うと、そういう人たちなんですね。ロシアとは違った荒々しい力を持っている人たちが南ロシアを駆けめぐっていたという記憶は、ロシア帝国になっても勿論あるわけです。そしてロシア帝国の文化の中で、自分たちの周辺にいた外部の、にもかかわらず魅力的な力強いもの、それを体現する踊り、それがポロヴェツのダンスで、これはイーゴリ公というロシアの大公がポロヴェツと戦って、彼らの捕虜になったときに見せられたダンスなんです。
 ということは、つまり、自分たちを、つまりロシア民族の指導者を捕虜にしたポロヴェツという民族の踊るダンスを、実際にディアギレフ・バレエはパリに持っていったわけですね。それは非常に奇妙であると言えば奇妙なんですけども、ただ、この人たちの力強さに対するロシア人たちの、いわば陶酔感というようなものは、20世紀の初めから1920年ぐらいにかけて、ものすごく強いものだったわけです。これをロシア語で「スキーフストヴォ=スキタイ主義」といって、そのスキタイの中にロシア人が忘れかけていた、自然の本源的な力のようなものがある、と考える人が出てきたわけです。その流れの中にディアギレフもいたんですね。
 ディアギレフは、一つにはロシアの伝統的なイコンからリアリズム、そして現代芸術まで興味を持ったんですけど、それと同時にパリの雅(みやび)な文化にも興味を持って、さらにロシアの周辺から吹いてくる風が持つ力強さ、というものにも魅せられていた。きわめて色々な方向に彼の感性っていうのは触れていた。そのスキタイ主義的な力強さ、それをパリに持ち込んだんです。つまり彼はロシアそのものというよりは、ロシアの周辺から吹いてくる風を、ヨーロッパに持っていったんですね。
 このポロヴェツのダンスの舞台衣装を作ったのはリョーリヒ、日本ではレーリヒと言われることが多いんですが、リョーリヒという画家です。彼は、そのスキタイ的な草原の向こう側に広がる金色(こんじき)の輝き、その下で力強く踊る民族、というような絵を描くわけです。ロシア人がそういう周辺のエネルギーを絵画として表現している。それがボロディンの曲と共にパリへと入っていく。そこにヨーロッパ、パリの観客たちは新たな文化の力を感じ、大きな魅力を感じて、そしてそれを絶賛し、受け入れていくという構図があるわけです。
 僕は今、やや肯定的にこの辺の流れを話してるんですけれども、もう一つだけ例を挙げると、その系譜の中にあるのが、ストラヴィンスキーの音楽と共に踊られた『春の祭典』。この『春の祭典』は、リョーリヒが実際に台本を書いています。舞台美術もリョーリヒがやっていて、きわめて力強く、金属音的な、いわば切断され、跳躍する、そういうリズムに乗って大地を踏みならす動きがあるわけですけれども。このリョーリヒという人はですね、画家であると同時に20世紀最大のロシアの神秘主義者でもあるんですね。彼はヒマラヤにも行って、僧侶としての経験もあるという、きわめて多彩な人で、その人間が外部に目を向けたときに持ち込んできたもの、これがストラヴィンスキーの、要するに南ロシアの儀礼の力強さを作り出しているわけです。
 そういう一連の流れの中にもう一つ、ある種の原色性というか、まばゆいばかりの色彩によって作り出されてくるゴンチャローヴァの『金鶏』。これも今回、展示されていて、『金鶏』の舞台装置のデッサンや絵画とかも我々は見ることができます。つまり、非常に過剰で力強い身振りと色彩、これが若いロシアの芸術家たちによって舞台の中に持ち込まれたということ、そのことによる大いなる驚きをですね、パリの観客、のちにはヨーロッパ各地の観客が感じ取ったということになります。

(6)身振りの喪失と復権/ディアギレフとメイエルホリド

 但し、なぜそうした作品が、パリ、或いはマドリッド、ミラノとかローマというようなところから出てくるのではなくて、なぜロシアからやってきたのか、ということが実は大きな問題です。きわめてシニカルな言説を吐いている最近の批評家でジョルジョ・アガンベンという人がいるんですが、この人は〈収容所の身体〉とは何かということ、収容所でガス室に送られていく宿命にある人たちの身体について、最近、色んなかたちで言及しています。〈収容所の身体〉というのは、今日、上演された舞台と実は関係があるわけですけど、彼が「身振りについての覚え書き」という短い文章を書いてるんですね[註5]。この中にディアギレフという名前が登場してくるんです。この考え方がどの程度、正鵠(せいこう)を射ているかということは議論の余地があるんですけれども。
Ballet Biomechanica
molecular theatre "Ballet Biomechanica," 2007.10.6
 アガンベンは、19世紀末、ちょうどディアギレフが活動しはじめる直前です、「19世紀末に、ヨーロッパのブルジョワジーたちは自らの身振りを失った」って書いてるんですね。「身振りが喪失された」と言っています。ブルジョワジーというのはおそらくパリ革命の時の立役者ですから、そのパリ革命の時にバリケードの上に乗って旗を振っていたブルジョワジーというイメージが、アガンベンにあるんだと思うんですけれども。そういう大げさな身振りというものをしなくなり、そして徐々におとなしくなっていったブルジョワジーたちは、身振りを喪失していくプロセスの中にある。で、まさに身振りを失いつつあるその瞬間に、その人たちは身振りを取り戻そうと、あがきはじめると言うんですね。
 そうした試みは無数にあるけれども、その姿を我々は裸足のイサドラ・ダンカンや、ディアギレフの舞踊の中に見出すことができる。或いはリルケとかですね、リルケがロダンの中に生命と襞を発見するように、或いは無声映画の表情や動きの中に、そうした傾向を我々は読み取ることができる、というふうにアガンベンは言っているわけです。つまり、パリの観客が求めていたのは自分たちが失いつつある身振り、それがロシアバレエの中に、ある意味、非常に過剰なかたちで存在していた。従って、この展覧会を観ると分かると思うんですけれども、渦巻きのような流れる衣装、これは20世紀初頭のロシアの舞台美術の衣裳の特徴です。いわば風が内部を、渦巻きとなって突き抜けていくような、その中にこそ、失われた身振りというものが、希求されたかたちで実現されている。実はこれが、19世紀末から20世紀初頭のロシアの芸術の根幹にあったんですね。
 これはどういうことかと言うと、例えばバクストの衣装の中にあるあのエネルギーが、実は1905年の第一次ロシア革命というようなものと、精神的な反響、共鳴関係にあった。で、さっきの舞台の中に出てきた1940年に殺されたメイエルホリドは、1905年にきわめて重要な舞台を演出します。メーテルリンクの作品です。これはスタニスラフスキイに言われて上演することになっていたスタジオ公演なんですが、リハーサルを観たスタニスラフスキイがえらく怒って、上演中止になるんですね。その翌年、彼は独立して、コミサルジェフスカヤ劇場というところで作品を自分たちで作りはじめます[註6]
 つまり1905~06年にロシアの前衛演劇というものが、いわば綺羅星の如く色んなかたちで出現してくるわけです。その動きと、1905年の第一次ロシア革命というものは繋がりがあるとされているんですね。そこに若い芸術家たちのエネルギーが結集していった。これはディアギレフが作った「芸術の世界」という芸術グループの運動の〈演劇ヴァージョン〉なんです。ところが、1905年革命の挫折と共に、メイエルホリドの活動も1906~07年を境にして、しばらく小休止を余儀なくされて、その動きが再び始まるのが1913年から14年ぐらい。それが徐々に1917年の革命直後のロシアのアヴァンギャルド演劇の絢爛たる動きと繋がっていくわけです。
 その絢爛たる動きとのかかわりの中で、「コンストラクティヴィズム=構成主義」的な舞台というのが登場してきて、本展にもエクステルの舞台デザイン絵画が展示されていますけど、この構成主義的な舞台の中で、身体が跳梁(ちょうりょう)するということが起こる。その始まりにあったのが、1914年にメイエルホリドのスタジオで上演された構成主義的舞台で、これは人間が、床の上をゆっくり歩くのではなくて、台を舞台の上に作ってその上に、ぽんと飛び乗ったりすることによって、一気に運動性が加速されるというかたちで実現するんです。
 つまり、そういう内的自然力が外的な動きに移行していく、その展開過程として1910~20年代のロシアの演劇があったんですけれども、そのちょうどエアポケットのような時代、つまり、1907年頃から1912~13年頃のことですが、そこにディアギレフが登場してくるんですね。しかも不思議なことに、このディアギレフは、ロシア芸術のエアポケットのような状況の中で生まれてきたにもかかわらず、その活動の場をロシアではなくパリで行なっているんです。その奇妙なズレが、ディアギレフの幸福と不幸を作り出している。

(7)放逐されたものの奪還/ディアギレフの不幸と幸運

 1906~07年に表舞台から消えたロシアの新しい芸術の動きは、1917年に再びロシアで始まるんだけれども、その間に新しい動きを作ろうとしたディアギレフは、なぜかパリに、その動きの可能性を持っていくんですね。それで実はその活動が開花した後、ディアギレフは事実上ロシアに戻ることができないんです。これはよく言われることですけれども、ディアギレフのロシアバレエというのは、ロシアで公演したことがないんですね。1917年の革命の後に、様々なアヴァンギャルドなアーティストたちとディアギレフはヨーロッパで交流することになる。そしてディアギレフは何度もモスクワ公演、或いはレニングラード公演を考えるんですが、ついにそれは実現することなく死んでしまうんですね。
 ディアギレフは1917年の革命以降、或いは1914年の第一次世界大戦の開始以降、徐々にロシアと切り離されていき、そして彼は、勿論、彼の様々な実践の中に蓄積されていたロシア的なものが消えるわけではないんですけれども、新しい芸術的な流れのさらなる蓄積というものを、ヨーロッパのピカソだとかコクトーとか、そういう人たちと共に作り出していく。そういう意味で言うと、非常に偉大な芸術のオーガナイザーであるわけですが、同時に、もしかしたら非常に不幸だったかも知れないということも、考えてみる必要があるかなと思いますね。
 それでもう一つ、話が前後してしまいましたけど、1911年の『ペトルーシュカ』についてちょっとだけ、参考になると思うので。ペトルーシュカというのは、いわゆる謝肉祭、お祭りの時に広場に建てられる小屋掛け芝居のことです。このペトルーシュカが、ロシアのバレエとして作られて、ロシアからパリに持ってこられるわけですけど、実はベヌアは、最初、1911年のシーズンの舞台美術やその他に関与するのを拒否してたんですね、本当は。ところが最終的に、彼が受けることになった非常に大きな理由が『ペトルーシュカ』という演目だったのです。1910年ぐらいになると、実はペテルブルグからペトルーシュカは消えていたんですね。大体1900年から1901年くらいの間にですね、ペトルーシュカは、ペテルブルグの中心地の広場ではやられなくなる。というか、上演禁止の措置に遭(あ)ってるんです。
 なぜそういうことが起こったかというと、いわゆる田舎のロシアの、庶民たちのエネルギーがそこに結集しているからですね。逆に言うと、そこは飲んだくれたちの溜まり場になっていた。衛生風紀上よろしくない、ということでペテルブルグの中心街で、ペトルーシュカをやることは禁止される。それで川向こうに放逐されます。そして、かなり遠くの方でしかやれなくなって、徐々にペテルブルグの人々が、そこまで行くのはめんどくさいということで行かなくなって、事実上、田舎にはまだあったと思いますけど、ペテルブルグからペトルーシュカは消えてしまったんですね。
 そのペトルーシュカこそ、ベヌアにとって小さな頃の、いわば芝居心の原点だったんです。だから、パリの人々にとって目新しい、非常に物珍しい、しかもカーニバル的な祝祭のエネルギーであるというふうに感じられた「ペトルーシュカ」っていうのは実は、その当時のペテルブルグの中心街に住んでいた人々にとっても既に存在しないものだった。つまり既に存在しないものを呼び起こしてくること、或いは放逐されたものを再び取り戻すこと、この試みが、実はディアギレフ・バレエ自体の試みでもあって、それがパリの観客にとっての希望でもあった。そういう意味で言うと、先程、ディアギレフは不幸だったんじゃないかと、つい言ってしまいましたが、アーティスティックな活動をするときの原点というのは、捨てられたもの、捨てられてしまったけれど重要なものをいかに取り返すか、そういうことだっていうのが、この展覧会を観ていると非常によく分かるんですね。
『ペトルーシュカ』などの映像は再現上演ですから、色々と調べて再現したには違いないけれども、勿論その当時、上演されたものとは違うので、様々な想像力を働かせて観なくちゃいけないと思いますが、これは絵画展示を観るときのものすごい参考になるので、何箇所かで流れているヴィデオも是非、観てお帰りになるといいと僕は思います。(拍手)


註1
この公演と講演は、青森県立美術館主催「舞台芸術の世界~ディアギレフのロシアバレエと舞台デザイン~」展・特別プログラム《バレエ・リュスとロシア・アヴァンギャルドの夕べ》と題して開催されたものです。その言語資料の記録として、ここに掲載することを御快諾された主催の青森県立美術館の方々に、担当された板倉容子学芸員に深く感謝します。[back]
註2
この公演は、演出・振付・美術:豊島重之/出演:大久保一恵・苫米地真弓・四戸由香・秋山容子・斉藤尚子・高沢利栄らによる。音声テクストの主要部分は、フセヴォロド・メイエルホリド「最後の演説」桑野隆訳、および浦雅春訳の年表の一部、いずれも作品社、2001年刊『メイエルホリド・ベストセレクション』所収。サブテクストとして、ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』鵜飼哲訳、現代企画室、1999年刊、よりの断章も音声化された舞台であった。[back]
註3
私がここで「よく分からない」と言っているのは、何故、このような事情で国立の芸術機関から〈永久追放〉されなければならないのか、その法的根拠が何なのか、私には理解できないということである。(鴻)[back]
註4
1982年にモスクワで刊行された2巻本の書籍。大判で各巻600ページを超える。ディアギレフ本人の美術批評、手紙、往復書簡、ディアギレフについての回想などで構成されている。(鴻)[back]
註5
ジョルジョ・アガンベン『人権の彼方に——政治哲学ノート』高桑和己訳、以文社、2000年刊、所収。(鴻)[back]
註6
浦雅春編のメイエルホリド年表によると、『青い鳥』で知られる作家・劇作家メーテルリンクの戯曲は当時、モスクワ芸術座などで盛んに上演されていた。1905年1月にペテルブルグ「血の日曜日」事件、6月に戦艦ポチョムキン「水兵叛乱」、8月に日露戦争講和という実質的敗北などの不穏な情勢下で、5月にメイエルホリドとスタニスラフスキイによる「演劇スタジオ」が始動。自然主義演劇に対して象徴主義演劇の可能性を模索すべく、メイエルホリドはメーテルリンク『タンタジールの死』などを試演。10月にスタニスラフスキイは「演劇スタジオ」解散を決定。逆にメイエルホリドは、徐々に象徴主義演劇から「フォルマリズム演劇」や「コンストラクティヴィズム演劇」へと自重を移行させていく。鴻英良氏の指摘はこの消息を指している。(編者)[back]


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