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詩を書くことと書きそこなうことの2000光年
2000 light-years between Ability and Disability to write poems
(1999年12月17日 八戸市公会堂文化ホールにおけるレクチュア)

稲川方人 INAGAWA, Masato(Poet/8mm Filmer)


(1)共有されることで成立つ閉域と、共有されないことで成立つ詩という閉域

 昨夜もいらした方は少ないと思うので、今夜は少し安心しております。昨夜の鈴木健二さんは圧倒的な話芸の持ち主でして、内容もさることながら、手元にメモもなしに初めて観たモレキュラーの演劇空間をその場で解析なさって、高度な哲学概念を用いながらピッタリ時間通りに喋り終わるという驚異的なものでしたので、それに比べるともう、たいへん分が悪いんですけれども、多少何かお話できるかと思って、即興にメモをとって参りました。
 モレキュラーの演劇および、我々が今日抱えている精神的な状況を、鈴木さんは平易に話したわけですね。それは、プロという人の持たなければいけない技術だと思うんですが、現代詩に限ってお話しますけれども、それとはどうも逆の状況がありましてですね、簡単な話をたいへん苦労して話さなければいけない状況にどうもなってしまう。現代詩を巡る多岐的な話をなかなか簡単に言うことができないという、日本の詩に限らず、おそらく外国も、フランスなんか余計近いかなという印象を持っていますが、簡単な主題に難渋しなければならないという、ある表現の状況が我々を覆っている、そういう現在にあります。ですから、何て言うんでしょう、話すことが、これでいいのかな、いいのかなと思いながらになるわけです。

 それともうひとつ。今夜お集りの皆さんの中に、実際に詩を読んでいる方、もしくはそれに附随して詩をお書きになっている方がどのくらいいるのか分からない、という単純なことも、僕が何か現代詩を巡って話そうとする時の、ひとつの障壁になっているということもあるんですね。もちろん、詩を読んでいない方、詩を書いていない方からみると、何故そんなことが障壁になるのかという、単純な問いかけも成り立つんですが。いま言ったように、簡単で単純なことに対して、どんどん難渋しなきゃいけないという、妙な二律背反状態にありますので、皆さんの中でどなたが詩を読まれていてどなたが詩を書かれているのかを知らないという、一種のプレッシャーもございます。つまり、同様の経験を、例えばここにいる皆さんと話している僕とが共有しているかどうかということが、いわばそこの障壁の主たる原因なわけですね。それを前提としなければコミュニケーションが成立しない、交通が不可能である、ということが生じている。生じているのではないかと、実作者であるこちらは思ってしまうという、妙な心理的な病的な様相もございます。
 コミュニケーションが不可能である、共有される経験がなければ、コミュニケーションの回路が成立しえないのではないか。ということはつまり、現代詩が閉じられたエリアだというふうに言い換えることもできると思うんですね。エリアが閉じられている、ジャンルとして閉塞的であるという言い方ができると思います。しかし、この閉じられたコミュニケーションというのが何なのか、と考えるわけですが、事態が、物事が閉じられている、不可能である、交通が不能であるという否定形によって出来あがっていますから、それに対してコミュニケーションという開かれた概念を対立させていますと、暗澹たる気分になるわけです。
 閉じられたコミュニケーション・システムというのは、実は現代詩が難解であるということとは、全く関係のない問題であると思うんですね。現代詩が表現として閉塞的な事態に陥っているということと、コミュニケーション・システムがその中で閉じられているのではないかと語ることとは、少なくとも本質的には関係がない。ある種の経験の公有と共有がなければコミュニケーションが見出せないということは、これは普遍的なもので、いわば普遍化できる問題だと思うんですね。経験の公有によってコミュニケーションが出来あがる、その、最も分かりやすい、最も大きなエリアが国家共同体です。共同体というのは、ある経験の幻想的な共有によって成り立っている。国家共同体がまさにそれであるし、例えば世代がそうだし、家族もそうだと思うんですね。ある否定的媒体であるというよりは、近代以降の我々の社会、精神的な反映がつくってきたひとつの本質的なシステムが、実は閉じられているコミュニケーション・システムなんだと捉えておかないと、たえず閉塞していること、人間の生が閉塞していることに対して、あるいは文学が閉塞しているとか、何々が閉塞しているということが、単に相対的な否定媒体としてしか見出せないというふうな、いわばもう一方の苦渋に、困難さに陥ってしまう。
 ですから、僕は現代詩がしばしば閉塞的であると言われることに対して、ほとんど無機的な反応しか致しません。どうも問題が違うというふうに感じられるからですね、今言ったような意味で。閉じられているコミュニケーション・システム自体が我々の生の全体なんだというふうに逆説的に捉え返すことで、何かしらそれを乗り越えようと考えるわけです。
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(図録"ICANOF Media Art Show 2001"より転載)



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