HOME
EXHIBITION
GEIDAI
EVENT
ARCHIVE
PUBLICATION BBS
LINK













                                                                     


HOME/新着情報
メディアアートショウ
八戸芸術大学
イヴェント情報
ICANOFアーカイヴ
ICANOFの刊行物
BBS
リンク

ICANOFの図録・写真集
・ICANOF Media Art Show 2004
・ICANOF Media Art Show 2002-03
・ICANOF Media Art Show 2001

icanof banner ■ICANOF代表
  米内安芸
■プロデューサー
  三浦文恵
■キュレーター
  豊島重之

www.hi-net.ne.jp/icanof/
mail:icanof@hi-net.ne.jp

■ICANOF事務局
青森県八戸市古常泉下14-18
〒031-0022
Tel 090-2998-0224(高沢)
Fax 0178-45-9247
mail:icanof@hi-net.ne.jp
【 ICANOF アーカイヴ 】
- ICANOF Archive Materials -



リー・フリードランダーの写真
Inspired by the photographs of Lee Friedlander


金村修 KANEMURA, Osamu(Photographer)



“誰にも真似できないロバート・フランク、誰にでも真似できるリー・フリードランダー”という言い方が、私が写真学校に入った頃よく言われていた言葉で、多分少しばかりリー・フリードランダーの方がバカにされているような言い方だったのだろうけど、私はその“誰にでも真似できる”リー・フリードランダーの方に興味を持ったし、多分その後それなりの影響をうけてきたと思う。リー・フリードランダーの写真は「社会的風景」という写真の文脈に入るらしい。その「社会的風景」という意味ももっと政治的な意味が強かったらしいが、自分が思っていた「社会的風景」というのは、今さら風景というのは写真によって撮られ尽くされた制度化されたもので、そこに新しいものなんか何もないみたいな感じで授業で教わってきたように思う。新しいものなんかないっていう言い方は、まだ25才ぐらいの自分にとってはかなり衝撃的で、新しいものがもうないのに、じゃあなんで今さら写真なんて撮らなくちゃいけないんだと思ったりもした。まぁ、だけどよく考えてみて、音楽だって音階を発見した人が一番フレッシュなので、その方面の人間はべつに一番新しいだの、聞いたこともない音楽だのとは言えないわけで、写真もカメラとフィルムを発明した人間が一番偉いのだろう。“新しい”だとか“見たことがない”だとか“個性的”だとか、一見まっとうな意見だけど実はほとんど思考停止させるみたいな言い方に多少疑問をもっていたから、“誰にでも真似できる”リー・フリードランダーの写真は、そのいかがわしさから随分ぬけた位置にいるように思えた。リー・フリードランダーの写真は、現実の世界にカメラを導入するにはどうすればいいのかみたいな、その方法論的なものがよく見えていたように思う。だから真似しやすいかもしれないし、“写真は写真それ自体を現前させろ”という教育を写真学校でうけてきた自分にとって、写真はべつに被写体を再現させる手段でも、内面の投影でもなかったし、現実の世界にカメラを導入するのは、何も現実とカメラと自分の幸福な結合を夢見ているわけでもなかった。当時はコンストラクテッド・フォトも流行していたけれど、“TakeからMakeへ”なんていう、写真の一方的な透明化にも興味はなかったし、そんな簡単に現実とカメラと自分が結合できるのか疑問に思っていた。自分は何かと一致したりとか所属させたりとかしたいわけじゃないし、エクスタシーを求めたり、エクスタシーからものを見たりするんじゃなくて、エクスタシーを徹底的に分裂させること。写真を実体化させ根拠化させて、そこから分かったように世界を見るなんてうんざりだと思った。リー・フリードランダーの写真が“誰にでも真似できる”と思われているのは、その方法が形式化されているからだろうけど、彼の写真の方法はべつに目的があっての手段ではないだろう。だいたい目的と言っても、そんな目新しい世界が待ち受けているわけでもないし、何を撮るかよりも、いかに撮るか、どう撮るかのほうが問題だった。自分は、その人特有の誰にも真似できない魔術的なインスピレーションなんて興味もなかったし、だいたいインスピレーションなんて被写体に向かったところで何も思いつかない。あぁ、この瞬間だ!なんて思ったことなんか一度もない。撮影なんていつもおそるおそるだ。どんな風にできるかなんてさっぱり分からない。距離何メートルになったらシャッターを押すとか、どのくらいの角度まで曲げるとか、地面をどれぐらいだすか、空の分量はとか、爆撃機の爆弾投下の訓練みたいなものだ。どこに当たるかなんて分からないし、どこに当たったってどこだっていい。リー・フリードランダーの写真はプリントは汚いし、構図だっていいものもあれば、メチャクチャなものもある。写っているものはどうでもいいものばかり。完全に客観的でもないし、極端に主観的でもない。場当たり的でもっと恣意的なものだ。リー・フリードランダーの写真を見ることは、その恣意的なものの中に潜りこむことだろうし、排除して見るのではなく、とりあえず場当たり的に肯定して見ていくこと。写真は“他なるもの”によってはじめて写真それ自体が把握されるわけで「なにを写して見せても、どのように写してみせても、写真そのものはつねに目に見えない。人が見るのは指向対象(被写体)であって、写真そのものではない」(ロラン・バルト)から、リー・フリードランダーの写真は一元的な写真自体の中に見えてくるものでもないし、被写体で見えてくるものでもない。現実の世界にカメラを導入することは、今だに被写体と作家の二元的な関係を要求するだろうし、被写体との安易な結合を許さないためにも、リー・フリードランダーの写真は今だに有効だと思う。見せかけの多様性や差異性なんていかがわしいものだろうし、写真に差異性を与える根拠なんていうのもべつにないだろうし、写真は被写体や言語と“会話”するなんて不可能だ。被写体やほかのレベルの体系との“会話”の不可能性を知ることが、自分がリー・フリードランダーから影響をうけた一つなのかもしれない。
(2001.MAY.10)


(図録 "ICANOF Media Art Show 2001" より転載)



Copyright © 2001-10  ICANOF  All rights reserved