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風景をハグ(剥ぐ・接ぐ)(L)ANDSC(R)APE/(EX)FOLIATE 〜 T
(03年9月6日/国際交流基金フォーラム(溜池山王)/に加筆校正)

出席/菅木志雄(美術家)
倉石信乃(批評家)
豊島重之(ICANOFキュレーター)



(5)「外部からの差異」を内包した周囲論的な「全体」


©YOSHIDA Tohru


 見たくないものを見るっていう時に、例えばA地点に非常にいいものがあって、B地点にはない、Cにもない、でもB、Cにとにかく行かなくちゃならないといった場合に、そこにやっぱり違う認識が必要となる。例えばAに中心という認識があったとして、じゃあB、Cはどういう認識なのかと。この「差異」は自分の身内から出た認識論ではなくて、外から圧力をかけられた状態の認識だと考えられますね。「外から来る差異」っていうのかな、異質なもの、つまり人間の心の中に内包されていない、外部的に存在しているものが内側に入ってくる状態でしょうか。
 どうも自分には納得いかない違う場所に移行していく、という事が往々にしてあるんですね。「ここは一番いいけど、ここは外そうじゃないか」と、「そっちは誰も来ないかも知れないけど、そっちにしよう」と、だんだん端の方に、物事があまり重要視されない状況性に移っていく。そうして、内包されたある種の空間の等質性みたいなものを獲得しようと。少なくとも、僕はおこがましいけどプロですから、嫌な空間も使う、嫌な物も使う、嫌な思考も時々は湧いてくる、それを全部ひっくるめて使う。ただ好きだからやってるんじゃなくて、やらなきゃいけないからやってるわけです。何にもなくなる場合だってあるんですよ。「あ、これだ」ってものがあるとそこが中心なんですが、「あー何しよう」って時は、志向性の端の方、縁の方にいるんでしょうね。
 縁(へり)を捨てるという事は「全体」を捨てる事ですよ。結局、中心性もなくなるわけですからね。全体を捨てないために「中心」を「端」にしていく、或いは「端」を「中心」にしていく、その入れ替わりを激しくしていく。それは自分の志向性の中でも「これがいい」とそれだけに固執するんじゃなくて、その周囲の、諸々の「要らない志向性」があるんですよ。それを捨てずに溜めていく。するとどんどん層が厚くなるから。つまり多様性・複雑性というか、むしろ今まで捨ててきた志向性を拾い上げる、という事もまた重要なんですよ。
 よく言われますけど、60・70年代ってある種無駄なものを切り捨ててきた、それに対する反撥の上でモノ派は成立しましたけど、それでもなお要らないものを切り詰めて成立させている。ミニマリズムってよく言いますけど、ミニマルな感覚が70・80年代ぐらいまで続いたわけで。モノ派の中でも、結局そのまんま捨ててきた作家と、捨てないでフォローしながら次に持ちこたえた作家というのがあるでしょうね。僕はどっちかと言うと非常にスローペースな方ですから。皆さんがパッパッとやってしまって「あっ」と思った時から始まるタイプですから。

(6)見える事態/見えない事態の「曖昧さ」を明示する
 ここに、1個の物(コップ)があるでしょ。ここを見てるんですね、ここを見て、同時に後ろを見てないわけですよ。脇も見てない、ここしか見えてない。おかしいなぁと思うわけだ。こう手に持って、立体でしょ。で、そっち側にもヴォリュームがあるのに、見てるのはここで、それはおかしいと。これをこう回していけば、当然違う側面が見えてきますね、ぐるーっと後ろも見えてくる。見えてきて初めて、しかしいつも見てる時は、ヴォリュームだけど一面しか見てないって事が、悲しい事実なんですよ。物はそういう風にしか見えないんだなと、立体でも。こりゃあ、ちょっとおかしいと、僕はずーっと悩んでました。
 勿論、こういう容れ物だと、中身もありますから、中も見ないといけないでしょ。でもこういう容れ物は中を見たら何にもないわけだ。枠組みだけは解る、しかし、本当の人間の必要性はこの中に入るものですよね。結局、人間の志向性というか、ものの捉え方というのは、非常に多面的だという事が解ったんです、遅いですけど。でもこれはやっぱりおかしいと思った瞬間に、じゃあ、本当は必要なこの裏の方は一体何なんだと、脇の方はどうなんだと思ったわけです。
 今、見てる方を、仮に一番強い側面だとしたら、後ろの方は弱いですよね、脇も弱い。で、強い面を中心に考えると、後ろとか脇の方は、全体の中の多様化、つまり隠れて見えない部分です。でもそれ必要なんですね。見えた部分を基準にすれば必ず、可視領域とその周囲みたいな認識が成立するんだという事を、僕はちらちら考えたわけだ。それをもっと拡大したり、構造を複雑にしたりしていった時にどうなるかと。さらに、ものだけじゃなくて、ものが成立するというのは空間の問題ですから、全体性を担える空間を認識しないといけないんですね。
 何もない処を認識して初めてものが成立しているという事。ものを見ようと思ったら、逆にそれがない状態、その周囲、という風に見ないと駄目だっていう事ですね。何もない処を見る。これが大事です。必ずしも何もないから、何も見えないんじゃないんですよ。「見える」って事と「見えない」って事の差異はそれほど無いんですね。今、言った事は結局、人間を中心に考えてる状態ですが、本来的には人間を中心に考えていいという根拠は何もない。たまたま僕らが志向的な動物だから、空間の認識が、物の配置が、或いは構造性がどうのこうのって言うけども、「全体性」の観点からしたら、ほんのちょっぴりでしかない、という処でしょうか。
 だから、さっきの上演、倉石さんや僕の言葉が色んな台詞回しとなって出てきて、いささか恥ずかしくもあり面白くもありという、ちょっと曖昧性の強い処っていうかな、曖昧な空間性みたいな、そういう処がまず「周囲」の一つとしてあるんじゃなかろうかと、僕は思いました。

(7)端と端を繋ぐ橋/左と右とその外部
豊島  途端に「周囲論」の核心に触れるようなお話を頂きました。今、菅さんが言われたように、見る人の位置=スタンスが菅さんの作品の中ではとても重要です。見る人の位置っていうのは、眼差しの主体の位置の事を言っているわけではなくて、見る人の位置からは見えない領域が作品化されているというか、それを周囲と呼ぶならば「周囲なるもの」が構造体化されている。菅さんによると「外部からの差異」、ある種の脅やかし、菅さんはそれを圧力とも言われましたが、それこそ見る人の位置であり、ギブソン的に言えば「他者の知覚」という事ですね。
 もっと解りやすく言うと、写真に撮ったら撮ろうと思ってないものまで写ってると。映画を見たら映画で見てたのはごく一部でしかなく、見る度に違った映画になると。大体、網膜に入ってきた全てのものを私達は見ているわけではなく、ごく一部を見ているわけで、それを中心と看做して辛うじて繋げて見ているのかも知れない。「見えてはいるが、見ていないもの、或いは見えないもの」というイメージ捕獲装置の事を、実は「風景」と呼ぶわけですよ。
 その「風景」をハグと。ハグっていうのも、「剥ぐ」と「接ぐ」で随分違う、アクセントの移動だけじゃない。まず LANDSCAPE の語頭がLである事。その後にRを挿入すると「 LANDSCRAPE」になりますね。その隣に EXFOLIATEの語頭「EX」つまり外部を置く。そうすると「左と右とその外部」というのがモチーフだという事が解りますね。但し、左と右のどこかに外部があるんですが、左と右のその外に、彼方みたいな別領域に外部があるんじゃないんですね。これはベケットなんかの、特に大事な位相だと思うんですけど、左と右の中間に、中間とさえ呼べない「曖昧さ」の中に外部があるんですよ。それが 「(L)ANDSC(R)APE/(EX)FOLIATE」の含意です。
 今日の上演ですと、第1イタドリのキーワードは、テクストに出てきた通り「スミ」です。第2ステージに移動すると、文字通り「ワク」です。で、第3イタドリが「ハシ」。全部カタカナですね。特に第3の「ハシ」は倉石さんによると、ブリッジの橋であり、エッジの端でもあるわけですが、じゃ、ブリッジって、どことどこを繋ぐんだと。此岸と彼岸と普通は考えがちですが、そうじゃなくて、菅さんの今のお話にもあったように「見えるもの」と「見えないもの」を繋いでいる。いわば「左」と「右」を繋いでるようなもので、もっと明らさまに言うと、「端」と「端」を繋ぐ「端」。エッジとエッジを繋ぐエッジ、それ以外のものはないんです。
 これは全然、神秘的なお話でも何でもなくて、ごく普通のお話なんですが。昔、ホームドラマに、「隣りの芝生」っていうのがあったのをご存知ですか。誰が出演していたか忘れましたが、隣りの芝生はうちの芝生よりよく見えるっていうホームドラマですね。で、「芝生の隣り」っていうのがあるんですよ(笑)。そこが「周囲」なんですね。という処で、倉石さんから少し。

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(図録"ICANOF Media Art Show 2004"より転載)



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